龍翁余話(88)「美術館にて」
先日、親友Kさん(今までに数回『余話』にご登場いただいているバリトン歌手)のお誘いで、上野の東京都美術館へ『日本の美術館名品展』を観に行った。7月5日閉展の寸前だった。実は翁、美術(絵画・版画類)はニガ手、たいした知識もないくせに館(やかた)の雰囲気が好きなのと、1点でもいい、数分、翁の足を止めてくれる作品に出会えば、それで満足、といった程度で、たまに美術館に行くことはある。今回も、そんな軽い気持ちでKさんのお誘いを受けた。と言うより、美術館のあと、Kさんとコーヒーでも飲みながら久しぶりに“四方山話”を交わすことを楽しみにして出かけた。
『西洋絵画・彫刻コーナー』で、いきなりクールベの作品『嵐の海』が目に飛び込んだ。
先年、ニューヨークのメトロポリタン美術館でクールベの『裸婦像』(2点)を観て以来、
翁はクールベの“にわかファン”になった。監視員の目を盗んで撮影した『水と裸婦』『女とオウム』は、今もパソコンに大切にファイルしている。盗み撮りは、そればかりではなくゴッホの『ひまわり』『糸杉』、ルノアールの『ピアノに向かう2人の少女』、ピカソの『ガートルード・スタインの肖像』もパチリ。日本の美術館は展示場が狭く、それだけ監視員の目が行き届くので盗み撮りは難しいし、また、そんな(翁のような)行儀の悪い奴はいないだろう、と思っていたら、いた。携帯電話カメラでパチパチやっている若者や中年の女性数人を見かけた、しかも堂々と。監視員のお嬢さん、見て見ぬふり?・・・
ともあれ、クールベ、ゴッホ、ルノアール、ピカソのほか、ミレー、モネ、シャガールなど名前だけは知っている画家たちの作品の前で“巨匠の名画”というだけで足を止めたが、鑑賞力はゼロ、今はもう、作品名も内容も殆んど忘れてしまっている。
時々、Kさんが翁の耳元で解説してくれる。“音楽家のKさん、何でこんなに絵に詳しいのかな?”―――実は彼、若い頃、オーストリア国立ウイーン芸術大学に留学した。その頃、頻繁に美術館巡りをしたそうだ。夫人のMさん(ソプラノ歌手)も同時期、同芸大に留学しており、その時、2人揃って美術館巡りをした、か、どうか知らないが、夫人もまた絵画の造詣は深いと聞く。芸術家は異なるジャンルの芸術をも理解・吸収する卓越した能力と感性をもっているのだろう。『両手のベートーヴェン』(ブールデル作)のブロンズの前で、Kさんは懐かしそうに(しばらく)佇んでいた。
『日本近・現代洋画、日本画、版画、彫刻コーナー』でも、翁の知識の貧しさを自覚させられた。が、そのままでは悔しいので、せいぜい、翁が知っている画家や彫刻家の作品の前では、少しばかり足を止めた。黒田清輝の『湖畔』、『祈祷』、『智・感・情』は見たことはあるが、展示の『ポプラの黄葉』は初めて。浅井忠の『漁婦』、岸田劉生の『冬枯れの道路』(東京・原宿付近の写生)は気楽に見られたが、東郷青児(初期)の『彼女のすべて』は意味不明。見ているだけで精神分裂症になりそうな幾何学模様の図。東郷作品と言えば、やはり“柔らかな曲線と色調で描かれた女性像”がいい。
ここで翁、少し藤田嗣治を語りたい。彼はパリと日本を往来した国際的画家。戦前は日本よりパリで有名だった。フランス政府から2度も勲章を与えられた。その彼が戦時中、軍部の命令で幾つかの戦争絵を描いた(描かされた)。代表作に『アッツ島玉砕』がある。1943年(昭和18年)5月30日、アリューシャン列島・アッツ島の守備隊2,638名は全員玉砕、その3ヵ月後に藤田は『アッツ島玉砕』を発表した。軍部の狙いはプロパガンダ画(戦意高揚画)であったが、藤田は戦争の悲惨さを忠実に描いたため軍部から睨まれた。しかし国民からの“藤田人気”は高まった。『アッツ島玉砕』の絵の前に賽銭箱が置かれ、人々は貧しい財布の中から賽銭を投げて戦死者への感謝と鎮魂の祈りを捧げた、と言う。なお、数年前に翁が編集制作した戦争ドキュメンタリー映画『私たちは忘れない』(現在も靖国神社・遊就館で上映中)の中に『アッツ島玉砕』を描いているが、翁は、自分の映画より藤田画伯のその絵の前で胸を熱くしたものだ。今日観た絵は『アントワープ港の眺め』、『私の夢』の2点であるが、何故か『アッツ島玉砕』が重なって仕方なかった。
小磯良平『着物の女』、横山大観『朧夜』『漁村曙』、安井曾太郎『読書』など、翁が知っている画家の作品の前では、まるで“美術評論家”気取りで気楽に鑑賞することが出来たが、梅原龍三郎の『紫禁城』の前で足が止まった。雲は白、空は灰色、そして燃えるような赤の紫禁城、そこには清王朝の終焉を物語る哀感が漂っている。梅原画伯の傑作の一つだ。ところが、隣りの『高峰秀子像』を見てガックリ。高峰秀子に全く似ていないばかりか、線も色もまるでチグハグ。これでも“芸術作品”と言うのか?名が有れば、その作家の作品なら何でも有難がる評論家や学芸員たちのレベルの加減が見えて不快だった。
無邪気になれたのが高村光太郎の『手』の前。翁、左手をかざしてブロンズと同じ形を試みるのだが『手』の特徴的な親指の反りが出来ない。周囲からクスクス笑いが聞こえる。翁、構わず真似を続けたが、結局は徒労に終わった。ところで翁、高村の『智恵子抄』にかけた妻へのひたむきな愛と、詩集『道程』の“僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る”の逞しい開拓魂が、どうしても結びつかない。いつか本格的に“人間・高村光太郎”を研究してみたい、という課題を与えられたエンディングであった。
Kさんが、鶯谷駅近くにある元禄年間開業の老舗『笹乃雪』という豆富茶屋に案内してくれた。この店では豆腐と書かず“豆富”と書く。名物あんかけ豆富ほか10品全てに絶妙な味付けが施され、上品な京都料理の粋を堪能することが出来た。そして更に翁の好奇心を煽ったのはKさんの“根岸の里”談義。どうやら次号は正岡子規や永井荷風に愛された下町“根岸界隈ぶらり旅”がテーマになりそう・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |