――― 前号からの続き ―――
以下は、今年(2009年)夏の「南カリフォルニア詩吟連盟(南加詩吟連盟)」主催の吟詠大会で使用する構成吟「菅原道真」の台本での続きです。
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☆構成吟『菅 原 道 真』(2)
この時、道真の家庭教師は都良香(みやこのよしか)という、当時、第一流の学者でしたが、この詩をみて驚いた。「このような天才少年はわが浅学をもって教うべきにあらず」と、先生役をおりてしまい、以来、友としての交わりをしたということです。
十四才で作った「臘月獨興(ろうげつどっきょう)」という七言律詩はもはや少年の詩とは思えぬ堂々たる作品で、のちに和漢朗詠集、冬の部に採録されたほどです。
臘月(ろうげつ)独興(どくきょう) 菅原(すがわら)道真(みちざね)作
玄冬(げんとう) 律(りつ)迫(せ)めて 正(まさ)に嗟(なげ)くに堪(た)えたり
還(かえ)って喜(よろこ)ぶ 春(はる)に向(むか)ひ敢(あえ)て?(はるか)ならざるを
尽(つ)きんと欲(ほっ)する寒光(かんこう) 幾(いづ)れの処(ところ)にか休(きゅう)する
来(き)たらんとする暖氣(だんき) 誰(た)が家(いえ)にか宿(やど)る
氷(こおり)は水面(すいめん)を封(ふう)じて 聞(き)くに浪(なみ)なく
雪(ゆき)は林頭(りんとう)に点(てん)じて 見(み)るに花有(はなあ)り
恨(うら)むべし 未(いま)だ学業(がくぎょう)に励(はげ)むことを知(し)らずして
書齊窓下(しょさいそうか) 年華(ねんか)を過(すご)すを
学問の名門菅原家でありますが、ここにひときわ輝く天分ありと、世に評判がきこえてまいります。律令制の当時、官吏になるには、まず文章生(もんじょうせい)になる為の国家試験に合格しなければなりません。毎年二十名ほどしか受からない狭き門です。これに道真は最年少の十八才で合格、しかも二十名のうち、トップ二(ツー)に入るという快挙でした。そりゃあ環境は良かったけれど、それだけでは受からない、大変な努力をした人です。大人になってから受験時代を思い出して作った詩があります。
日長(ひなが)きに苦(くる)しむ 菅原(すがわら)道真(みちざね)作
少(わか)き日(ひ) 秀才(しゅうさい)たりしとき
光陰(こういん) 常(つね)に給(きゅう)せず
朋(とも)との交(まじわ)りに言笑(げんしょう)を絶(た)ち
妻子(さいし)にも親(した)しみ習(なら)ふことを廃(はい)せり
まじめな人です。一心不乱にひたすら勉強しました。ともあれ、道真、トントン拍子の出世につぐ出世。三十三歳で文章博士(もんじょうはかせ)。これは文章を司るお役目としては最高のポジションです。菅原家の誉れ、希望の星、まぎれもなくエリートコースまっしぐらでありました。
しかし、いいことばかりでもありません。幼い愛児二人を病で失ったのです。
阿満(あまん)を夢(ゆめ)む 菅原(すがわら)道真(みちざね)作
阿満亡(あまんぼう)じて 来(このかた)夜(よる)も眠(ねむ)らず
偶々(たまたま)眠(ねむ)れば 夢(ゆめ)に遭(あ)ひて涕(なみだ)漣々(れんれん)たり
身長(しんちょう) 去夏(きょか)は三尺(さんじゃく)に余(あま)り
歯(よはい)立ち(た)て 今春(こんしゅん)は七年(ねん)なるべし
事(こと)に従(したが)ひて人(ひと)の子(こ)の道(みち)を知(し)らんことを請(こ)ひ
書(しょ)を読(よ)みて帝京(ていけい)篇(へん)を暗誦(あんしょう)したり
庭(にわ)には駐(とど)む 戯(たわむれ)れに栽(う)えし花(はな)の旧種(きゅうしゅ)
壁(かべ)には残(のこ)す 学(まな)んで点(てん)ぜし字(じ)の傍辺(ぼうへん)
言笑(げんしょう)を思(おも)ふ毎(ごと)に在(あ)るがごとしと雖(いえ)ども
起居(ききょ)を見ん(み)と希(ねが)へば惣(すべ)て惘然(ぼうぜん)たり
到(いた)る処(ところ) 須弥(しゅみ) 百億(ひゃくおく)に迷(まよ)はむ
生(うま)るる時(とき)の世界(せかい) 三千(さんぜん)暗(くら)からむ
南無(なむ)観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)
吾児(わがこ)を擁護(ようご)して大蓮(だいれん)に坐(ざ)せしめよ
―――― 続く ―――― 河合将介(skawai@earthlink.net) |