龍翁余話(80)横浜開港150年
この連休の間、テレビは毎日のように“交通渋滞”を報じた。人が動き回る時には、出来るだけじっとしていたい翁、そのニュースを見るたびに“あんな交通地獄に巻き込まれたら命を縮める。動かなくてよかった“――しかし、せっかくのゴールデン・ウイークなのに、パジャウロ(家の中でパジャマのままウロウロしている)だけで過ごすのは勿体ない。よし、横浜で催されている『開国(開港)150周年』へ行こう――連休最終日の6日の朝、急に思い立って車で出かけた。曇天で、そのうち雨になるかも。しかし翁の興味は“横浜150年の歴史。かねてから訪れてみたかった『横浜開港資料館』だから雨が降っても構わない。日本大通りの、とある駐車場に車を入れて神奈川県庁の直ぐ前、重厚な雰囲気が漂う洋館へ。ここは昭和47年(1972年)まで英国総領事館だった場所。天候のせいか、あるいは長い連休で人々は疲れ果てて家でパジャウロしているのだろうか、幸いなことに館内はガラガラだった。
歴史、特に幕末史が好きな翁、横浜が、近代日本の夜明けに、どんなに大きな役割を果たしたか少しは知っているつもりでいたのだが、その知識が、いかに上っ面であったかを、イヤというほど思い知らされた。嘉永6年(1853年)にペリー提督率いるアメリカ合衆国海軍(東インド艦隊艦船)、いわゆる“黒船”が江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に来航して以来、250年の長きに亘る江戸(徳川)幕府の屋台骨と鎖国政策が揺らぎ始める。この黒船来航から明治維新までを幕末と言うのだが、その間の幕府の荒れ様はすざましい。一般的に知られている幕末史と言えば・・・
安政元年(1854年)にペリーが再来日し、日米和親条約(神奈川条約)締結後、伊賀地震、東海地震、南海地震が立て続けに起こる。更に翌年の安政2年(1855年)には大地震が江戸及び周辺を襲う。安政5年(1858年)に大老・井伊直弼によって“安政の大獄”が始まり、吉田松陰(思想家・教育者・兵学者)、橋本左内(蘭方医学者・教育者)、頼三樹三郎(儒学者・頼山陽の息子で同じ儒学者)らが死刑・獄死。弾圧された志士、大名、公家など数百人を超えた。更にこの時期コレラが大流行、一説によると10万人の江戸市民が犠牲になったそうだ。そして戊辰戦争へ。この辺の歴史は、昨年のNHK大河ドラマ『篤姫』でも詳しく描かれていたので記憶の読者も多かろうから詳細は省くが、翁が、我が知識の乏しさを思い知らされたのは、もっと身近な“横浜幕末史”である。
『横浜開港資料館』には、幕末から昭和初期までの、横浜に関する歴史資料(古文書・海外資料・新聞・図書・写真など)が約25万点収蔵されているという。時間に制限があるので翁、“生活史”を中心に学習した。ある、ある、文明開化の先陣を切った横浜だけに“日本初”が目白押し。例えば安政6年(1869年)米国の医師ヘボンによる『ヘボン式ローマ字編纂』、文久2年(1862年)『西洋式クリーニング屋開業』、元治元年(1864年)通訳ジョセフ彦による「海外新聞創刊」、慶應2年(1866年)下岡蓮杖(日本初のプロ・カメラマン)が『写真館開業』、慶應3年(1867年)海岸通りから吉田橋(日本初の鉄橋)まで幅20mの『近代道路と街路樹』が完成、明治元年(1868年)米国人クラーク博士が『西洋歯科診療所』を開設、明治2年(1869年)英国人技師ギルバートが電報業務を開始。勝海舟らと咸臨丸で渡米した町田房造が米国滞在中にアイスクリーム製法を学び、帰国後、(明治2年)馬車道で日本初の『アイスクリームを製造販売』、明治3年(1870年)米国人コープランドが山手の湧き水を利用して日本初の『ビール醸造を開始』、この年には『日刊新聞』(横浜毎日新聞)発刊、『ガス灯』(ガス会社設立)、『洋式公園』(山手公園)開園などの“日本初”が続く。明治4年(1871年)『初のプロテスタント教会』(横浜海岸教会)、外人居留地に『消防隊設置』(大正3年に日本初の『消防車配備』、昭和8年に『救急車配置』)、その他、明治6年(1873年)『西洋瓦』、明治8年(1875年)『外国郵便操始』(横浜港郵便局)、明治20年(1887年)『日本初の鉄管水道施設』、明治23年(1890年)『電話交換創始』・・・まだまだある。当然、それぞれにドラマがある。もっと詳細(学習成果)をひけらかしたいが、紙面の都合上、割愛する。
資料館の中庭に出た。幕末から現代に至るまでの“歴史証人”『玉楠(たまくす)の木』が生き続けている(写真:左)。雲行きが怪しくなった。急いで赤レンガ倉庫街方面へ。停泊中の“黒船体験船”『観光丸』を撮る(写真:中)。安政2年(1855年)オランダ王国ウイレム3世から徳川幕府に献上された日本初の蒸気帆船、当時と同じ材料、設計で再現された、と説明書にある。そして評判の“巨大なクモ”を見る(写真:右)。フランスのアート劇団“ラ・マシン”のデモンストレーションらしいが、何でこんなものが横浜開港150周年(祭)と関わりがあるのか違和感を覚える。多分、“人寄せパンダ”だろう。子供たちは喜んでいた。
明治42年に作られた『横浜市歌』(作詞・森鴎外、作曲・南能衛)の中に“むかし思へば苫屋の烟 今は百舟百千舟 泊る處ぞ見よや”(昔の横浜村は粗末な家から炊事の煙がちらほらと立つ寂しい所だった。今をご覧よ、多くの船が停泊する活気ある港になった)という1節がある。500人の寒村が今や365万人の大都会に。『横浜開国(開港)150周年』イベントは9月27日まで続く。また行きたい。横浜150年史を学ぶことは日本の幕末〜近代日本の黎明期を知ることにもなると思うから・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。
龍翁余話(81)
「“天地人”ゆかりの地・六日町」<その1>
今年正月4日に配信した『龍翁余話(64)「大河ドラマ 天地人」に「戦国乱世は、人々は“利”によって動いた時代だが、北の大地に“義と愛”に生きた漢(おとこ)がいた。直江兼続(なおえ かねつぐ)――上杉景勝(上杉謙信没後、上杉家第2代当主・初代米沢藩主)の家老でありながら豊臣秀吉や徳川家康を畏怖させた傑物。謙信から受け継いだ“義”を貫き“仁愛”の境地に達する兼続の苦闘と栄光を描いた物語である」を書いた。その大河ドラマ『天地人』が、そろそろ佳境に入る。そこで先日、景勝・兼続主従のゆかりの地・上田庄(うえだのしょう=新潟県南魚沼市)を訪ねた。歴史とドラマと現実(史跡)が入り交じって景勝・兼続が、いよいよ身近になる。
越後湯沢駅で在来線(上越線普通列車)に乗り換える。車窓から見える1000m級の山々の山頂付近の残雪に“雪国”の印象を深める。近年、降雪量は少なくなったが、越後の中でも上田庄は、かつては半年近くも重い雪に閉ざされる豪雪地帯であった。雪は人々に辛抱強く耐える強靭な精神力を育み、春を待つ楽しみを教えてくれる。こんな環境の中に、将来名将となるべき基礎を培った二人(長尾喜平次、のちの上杉景勝と、樋口与六、のちの直江兼続)の少年期がある。
石打、大沢を過ぎる辺りから『天地人』が始まる。上越国際スキー場駅近くに『樺沢城址』(本城・坂戸城の出城)がある。ここは関東から越後へ抜ける三国街道(国道17号線)の玄関口、敵の侵入を防ぐ重要拠点。のちの『御館(おたて)の乱』では、北条軍侵攻の最前線基地となった古戦場。
 |
 |
景勝はここで生まれたとされている。それを証明するかのように景勝の胞衣(えな・ヘソの緒)が、樺澤城(址)の胞衣塚に安置されており(写真:左)、麓の龍澤寺境内に「上杉景勝公生誕の地」の石碑がある(写真:右)。父は長尾政景(坂戸城主)、母は上杉謙信の姉・仙桃院。仙桃院は“三人寄れば文殊の知恵“で知られる文殊菩薩を深く信仰し、景勝の戦勝、武運長久を願って守護仏・文殊菩薩を龍澤寺に奉安された、と伝えられている。
さて、翁の“天地人ゆかりの地めぐり“の主目的地は、六日町である。六日町は南魚沼市の全人口(約61,000人)の4割強(約27,800人)を占める市の中心地。上杉景勝と直江兼続主従の深い関係は、ここから始まった。駅前には『天地人』の旗の波。近くに『愛・天地人博』が催されているが、それは後回し。まずは、上田庄の歴史を背負い、六日町の今を見守っている坂戸山(標高634m、戦国時代、長尾政景の居城だった越後屈指の山城跡)を目指す。タクシーか、歩きか、迷ったが、町の空気を味わうには、歩きがいい。駅構内の観光案内所で地図を貰い、徒歩時間を尋ねたら「20分」とのこと。ゴルフで鍛えた健脚自慢の翁、軽快に六日町盆地を貫流する魚野川(六日町橋)を渡る。谷川岳に源を発し、越後川口(北魚沼郡)で信濃川に合流する全長69.5kmのこの川は、上田長尾氏の経済を支える重要な水路だった。上田銀山の大量の銀や越後の特産品・麻糸の原料である青苧(あおそ)などを舟運で柏崎や直江津に運び、そこから海路で京の都へ。景勝・兼続主従も幼少の頃この川で(短い夏の間)泳いだり、アユやヤマベ釣りをして遊んだことだろう。
坂戸山の麓・銭淵公園(写真:左)の一角に、兼続生誕の家を模した『直江兼続公伝世館』がある(写真:中)。大河ドラマの最初の頃に見た樋口家(父・惣右衛門、母・藤、長男・与六、次男・与七=後の大国実頼、長女・キタ)の生活の臭いが伝わってきそう。館内には甲冑、槍、当時の家財道具、文書類が展示されている。“撮影禁止”の札が見えなかったことにして、兼続愛用の鉄扇を1枚(写真:右)。
翁、大小の旅の途中で、時々、親切な御仁と出会うことがある。伝世館を出たところで、散歩している様子の、ご隠居風のお年寄りに道を尋ねた。「坂戸城址に行きたいのですが」「ああ、この道を――よかったら私がご案内しましょうか?」「え? それは助かります」といった具合で翁、幸運にも“にわかガイド”を得た。その人(Mさん)は10数年前まで地元高校の教師だったそうだ。「長尾(翁の姓)さんは、もしかして上田庄とご関係が?」「いえ、私は九州ですから、上田長尾氏とは無関係です」「でもこの地で今日“長尾さん”とお目にかかったことは何かのご縁、嬉しいです」何と純粋なお方だろう。翁、恐縮したり感謝したり・・・この後、Mさんのご案内で『坂戸城址』や、景勝・兼続が幼少の頃に共に学んだ『雲洞庵』(うんとうあん)を訪ねるのだが(スペースの関係で)それは次号にご紹介するとして、歴史と人情に感謝しつつ、っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |