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NO.678                Ryo Onishi              5/10/2009  

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雑貨屋のひとり言

良い気候になってきましたが、これと逆行するように新型インフルエンザが世界中に広がりを見せています。見えない敵、まるでインベーダーのようです。これだけグローバル化してきたら広がりだしたらあっという間でしょう。できるだけ人ごみを避けようと思いますが、駅に行きますし、通勤電車にも乗るのでリスクはいっぱいです。ようやく長い花粉症から開放されてマスクをはずせたと思っていたのですが、またマスクをかけて行きますか。≪R.O≫

水 際 作 戦 体 験 記

 メキシコ・アメリカをはじめ、世界各地で突如発生した新型インフルエンザに対し、日本の空港、港などで当該ウイルスが国内に持込まれないよう水際作戦が展開されています。特に感染による発病者のいる地域からの日本入国者へは当然ながら厳重な検疫検査が実施されており、その様子はテレビ・ニュースなどを通じて報道されています。

WHO(世界保健機関)がこの新型インフルエンザに対する警戒レベルを「フェーズ4」から、世界的大流行(パンデミック)の一段階手前の「フェーズ5」に引き上げを発表した4月29日(日本時間4月30日)、私はロサンゼルスから成田空港へ向かうことになりました。

今回の日本への一時帰国は私の実姉(東京・八王子在住)の急逝にともなうものであり、こればかりは帰国日を延ばすことも出来ず、急遽日本行き航空券を手配し、とるものもとりあえず駆けつけたかたちとなったのです。

私の搭乗していた国際便が成田に近づくと、先ず機内全員に質問票が配られました。発熱・咳・薬の投与の有無、数日間にわたり接触した人の症状、日本到着後10日間の滞在・連絡先など数項目にわたるものでした。

さて、搭乗機が成田空港に着陸し、所定のゲートに停止しても、私たち乗客は全員そのまま座席に留められること十数分、やがて5,6名の検疫官が乗り込んできました。そしてそれからがたいへんです。一人の検疫官が大きめのカメラ状のサーモグラフィー(体温測定器)で乗客ひとりひとりの体温を調べます。そこで基準を超える体温の乗客には個別に体温計(脇の下に入れて測る)で正確に測定するのです。

これと平行して他の検疫官たちが乗客全員に健康状況を聞きながら質問票を回収、さらに空港検疫所発行の注意書、マスクの配布など大忙しの様子でした。

なにしろ日本はゴールデン・ウイークというタイミングでもあり、国際線の大型航空機はほゞ満席の状況で、その上検疫官、乗客ともお互い不慣れなことでもあり、時間ばかりが無為に過ぎる感じもしないではありませんでした。乗客の中には今後の滞在先、連絡先といわれてもその住所や電話番号を書けない人も結構いたようで、質問票の回収だけでも必要以上の時間を要していました。

私と周囲の座席の人たちが最終的に問題なしと判定され、ようやく席を立つことが出来たのは機が停止してからほゞ2時間後のことでした。航空機の後方寄りの座席から私が出口のドアに向かう途中、機の中ほどの席を占めていた数十人の乗客はまだ着席のままでした。その集団の中に感染を疑われ、次の段階の検査が必要な乗客がいたからでしょう。その後のニュースで私の搭乗した便で陽性反応者が見つかったという報道がなかったので、これらの乗客もその後無事開放されたのでしょうが、きっと彼らはさらに数時間にわたって機内に留め置かれたことと思います。

機外へ出た私は先ず洗面所へ急ぎ、いつもより数倍の時間をかけて丁寧に手を洗っていました。
さて、予定より2時間遅れで日本へ入国したものゝ、姉の通夜には間に合わず、私は都心に向かう電車の中から手をあわせて冥福を祈るほかなく心残りでした。しかし、こればかりは誰を恨むことも出来ないことであり、私が新型インフルエンザの陽性反応もなく、すこぶる健康でよかったと思うほかありません。

私の搭乗した機内でもこれだけの時間をかけた検疫作業でしたが、乗客側からの目立ったトラブルもなく、皆さん冷静に対処していたのが印象的でした。

このような状況下では個人の不便はある程度やむをえないことであり、私の場合も通夜に遅れても姉は許してくれたことと思っています。通夜には間に合いませんでしたが、翌日の告別式には参列でき、姉とは最後の別れが出来たのがせめてものことでした。

私の日本滞在は5日間でした。滞在先の浅草のホテルに台東区保健所から、私が入国前の機内で提出した検疫質問票にもとづき、入国後の健康状態についての追跡問い合わせの電話を受けました。

日本では国を挙げて今回の新型インフルエンザ・ウイルスの国内侵入を阻止するため、これほどまでの水際作戦を展開していたことを私自身、身をもって体験した次第です。

感染後の潜伏期間中にウイルスが日本国内に侵入する危惧もあり、完璧に防ぐ手段はないといわれていますが、出来うる限りの対策を講ずる必要はあるわけで、そのためには入国時に行われるこのような水際作戦に私たち乗客側もある程度の忍耐と寛容が求められるのはやむを得ないことです。

 ところで、5日間の日本滞在を終え、私は5月5日の便でロサンゼルスへ戻ってきましたが、ロサンゼルス空港へ着陸の直前に飛行機の機内放送で「新型インフルエンザが蔓延しています、皆さんは各自、ご自分の責任で気をつけてください」とアナウンスがあっただけで、機内、到着後の空港ともに何の検疫検査もありませんでした。これも感染者発生国(アメリカ)と未発生国(日本)との差といってしまえばそれまでですが、こんなところにも日米の文化の差を感じました。
  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「」

今週はお休みです。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

漱石の猫マンションの世を嘆く

裏の畑でポチが見つけた不発弾

お座敷の牛追い歌に空がない

キツネからタヌキに早耳が化ける

一匹狼ごろりと歳に負けている

( ニュースやぶにらみ )

「今場所限りで定年」
待ったなしなの −東関親方フアン

「新インフルエンザ日本にも」
人間に気をつけろ −トリ

「本土をそれる」
不況風、豚カゼをよけた −台風1号

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

 

森田さんから

今週はお休みです。              

龍翁余話

龍翁余話(80)横浜開港150年

この連休の間、テレビは毎日のように“交通渋滞”を報じた。人が動き回る時には、出来るだけじっとしていたい翁、そのニュースを見るたびに“あんな交通地獄に巻き込まれたら命を縮める。動かなくてよかった“――しかし、せっかくのゴールデン・ウイークなのに、パジャウロ(家の中でパジャマのままウロウロしている)だけで過ごすのは勿体ない。よし、横浜で催されている『開国(開港)150周年』へ行こう――連休最終日の6日の朝、急に思い立って車で出かけた。曇天で、そのうち雨になるかも。しかし翁の興味は“横浜150年の歴史。かねてから訪れてみたかった『横浜開港資料館』だから雨が降っても構わない。日本大通りの、とある駐車場に車を入れて神奈川県庁の直ぐ前、重厚な雰囲気が漂う洋館へ。ここは昭和47年(1972年)まで英国総領事館だった場所。天候のせいか、あるいは長い連休で人々は疲れ果てて家でパジャウロしているのだろうか、幸いなことに館内はガラガラだった。

歴史、特に幕末史が好きな翁、横浜が、近代日本の夜明けに、どんなに大きな役割を果たしたか少しは知っているつもりでいたのだが、その知識が、いかに上っ面であったかを、イヤというほど思い知らされた。嘉永6年(1853年)にペリー提督率いるアメリカ合衆国海軍(東インド艦隊艦船)、いわゆる“黒船”が江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に来航して以来、250年の長きに亘る江戸(徳川)幕府の屋台骨と鎖国政策が揺らぎ始める。この黒船来航から明治維新までを幕末と言うのだが、その間の幕府の荒れ様はすざましい。一般的に知られている幕末史と言えば・・・
安政元年(1854年)にペリーが再来日し、日米和親条約(神奈川条約)締結後、伊賀地震、東海地震、南海地震が立て続けに起こる。更に翌年の安政2年(1855年)には大地震が江戸及び周辺を襲う。安政5年(1858年)に大老・井伊直弼によって“安政の大獄”が始まり、吉田松陰(思想家・教育者・兵学者)、橋本左内(蘭方医学者・教育者)、頼三樹三郎(儒学者・頼山陽の息子で同じ儒学者)らが死刑・獄死。弾圧された志士、大名、公家など数百人を超えた。更にこの時期コレラが大流行、一説によると10万人の江戸市民が犠牲になったそうだ。そして戊辰戦争へ。この辺の歴史は、昨年のNHK大河ドラマ『篤姫』でも詳しく描かれていたので記憶の読者も多かろうから詳細は省くが、翁が、我が知識の乏しさを思い知らされたのは、もっと身近な“横浜幕末史”である。

『横浜開港資料館』には、幕末から昭和初期までの、横浜に関する歴史資料(古文書・海外資料・新聞・図書・写真など)が約25万点収蔵されているという。時間に制限があるので翁、“生活史”を中心に学習した。ある、ある、文明開化の先陣を切った横浜だけに“日本初”が目白押し。例えば安政6年(1869年)米国の医師ヘボンによる『ヘボン式ローマ字編纂』、文久2年(1862年)『西洋式クリーニング屋開業』、元治元年(1864年)通訳ジョセフ彦による「海外新聞創刊」、慶應2年(1866年)下岡蓮杖(日本初のプロ・カメラマン)が『写真館開業』、慶應3年(1867年)海岸通りから吉田橋(日本初の鉄橋)まで幅20mの『近代道路と街路樹』が完成、明治元年(1868年)米国人クラーク博士が『西洋歯科診療所』を開設、明治2年(1869年)英国人技師ギルバートが電報業務を開始。勝海舟らと咸臨丸で渡米した町田房造が米国滞在中にアイスクリーム製法を学び、帰国後、(明治2年)馬車道で日本初の『アイスクリームを製造販売』、明治3年(1870年)米国人コープランドが山手の湧き水を利用して日本初の『ビール醸造を開始』、この年には『日刊新聞』(横浜毎日新聞)発刊、『ガス灯』(ガス会社設立)、『洋式公園』(山手公園)開園などの“日本初”が続く。明治4年(1871年)『初のプロテスタント教会』(横浜海岸教会)、外人居留地に『消防隊設置』(大正3年に日本初の『消防車配備』、昭和8年に『救急車配置』)、その他、明治6年(1873年)『西洋瓦』、明治8年(1875年)『外国郵便操始』(横浜港郵便局)、明治20年(1887年)『日本初の鉄管水道施設』、明治23年(1890年)『電話交換創始』・・・まだまだある。当然、それぞれにドラマがある。もっと詳細(学習成果)をひけらかしたいが、紙面の都合上、割愛する。

   
資料館の中庭に出た。幕末から現代に至るまでの“歴史証人”『玉楠(たまくす)の木』が生き続けている(写真:左)。雲行きが怪しくなった。急いで赤レンガ倉庫街方面へ。停泊中の“黒船体験船”『観光丸』を撮る(写真:中)。安政2年(1855年)オランダ王国ウイレム3世から徳川幕府に献上された日本初の蒸気帆船、当時と同じ材料、設計で再現された、と説明書にある。そして評判の“巨大なクモ”を見る(写真:右)。フランスのアート劇団“ラ・マシン”のデモンストレーションらしいが、何でこんなものが横浜開港150周年(祭)と関わりがあるのか違和感を覚える。多分、“人寄せパンダ”だろう。子供たちは喜んでいた。

明治42年に作られた『横浜市歌』(作詞・森鴎外、作曲・南能衛)の中に“むかし思へば苫屋の烟 今は百舟百千舟 泊る處ぞ見よや”(昔の横浜村は粗末な家から炊事の煙がちらほらと立つ寂しい所だった。今をご覧よ、多くの船が停泊する活気ある港になった)という1節がある。500人の寒村が今や365万人の大都会に。『横浜開国(開港)150周年』イベントは9月27日まで続く。また行きたい。横浜150年史を学ぶことは日本の幕末〜近代日本の黎明期を知ることにもなると思うから・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

今回はいつもと違った音楽でいきましょう。カタリナ奏者の「宗次郎」です。
自らカタリナを製作しそれで演奏しています。とても癒される音色です。
ディスク1は思わず口ずさんでしまう曲があります。

宗次郎
オカリナ・エチュードコレクション「リクエスト」


ディスク:1
1. コンドルは飛んで行く
2. 埴生の宿
3. ふるさと
4. 赤とんぼ
5. 月の沙漠
6. 浜辺の歌
7. 蘇州夜曲
8. 馬子歌(日本民謡)
9. リンゴ追分
10. エーデルワイス


ディスク:2
1. アヴェ・マリア(シューベルト)
2. リュートのための古い舞曲とアリアより「イタリアーナ」「シチリアーナ」
3. 「カンタータ第147番」~主よ人の望みよ喜びよ
4. G線上のアリア
5. ブラームスの子守歌
6. ムーン・リバー
7. マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン
8. メイ・イット・ビー
9. メロディ・フェア
10. アメイジング・グレイス

《R.O.》

編集後記

4月からはじめたブログですが、5月のアクセス数は4月の倍になりました。
何に反応しているのかまだ良くわかりません。マイペースでいくことにします。
雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.678

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com