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NO.672                Ryo Onishi              3/29/2009  

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雑貨屋のひとり言

先週はWBCの話題で持ちきりでしたね。決勝戦は韓国チームとのすごい戦いになりましたが、劇的なイチローのヒットで日本チームが優勝し、たくさんの人が感動したことと思います。これからしばらく日韓の時代が続くのではないでしょうか?フィギアスケートでも日韓戦がありますからね。≪R.O≫

F.D.R メモ(6)

――― 前号よりの続き。以下の覚え(メモ)はすべて下記からの引用(または参照)であり、私自身がフランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt、以後の記述では「F.D.R.」とします)を知るためのメモであることをお断りしておきます。―――

「ルーズベルト、ニューディールと第二次世界大戦」(新川健三郎著、清水新書)
「パクス・アメリカーナの光と影」(上杉 忍著、講談社現代新書)
「ルート66、アメリカ・マザーロードの歴史と旅」(東 理夫著、丸善ライブラリー)
「フランクリン・ルーズベルト」(T.V.番組、知ってるつもり)、その他、インターネットからの情報

〔Z〕ニューディール政策(1)
(1)大統領就任時の危機的状況
 1933年3月4日、F.D.R.はアメリカ合衆国第32代大統領に就任した。この日、首都ワシントンD.C.は、どんよりとした鉛色の雲がたれ込め、重苦しい気分が立ちこめていたが、まさに同じように、アメリカの社会はもとより、国際情勢も不穏な空気に包まれていた。

 アメリカ経済はこの時、文字通り最悪の状態に陥っていた。失業者数は 1,300万人近くに達し、農村では農産物価格の低落や農地の抵当流れで不満は高まり、暴動寸前の状態だった。景気指数はほとんどすべてアメリカ経済がどん底にあることを示していた。しかも、 大統領就任式直前の1933年2月にデトロイト諸銀行の倒産に始まった金融危機は、またたくまにアメリカ全土に広がり、F.D.R.の大統領就任当日の朝には、事実上すべての銀行が業務を停止し、ここにアメリカ経済機構は完全にマヒ状態になっていた。

 一方、この時、国際情勢もアメリカ経済に劣らず不安の度を強めていた。アジアでは、 1931年満州事変を契機に、日本が国際世論の反対にもかかわらず、翌1932年3月には満州国の建国を宣言し、大陸へ進攻の姿勢を一段と強めていた。

 ヨーロッパのドイツでは 1932年、総選挙でナチス党が第一党になり、F.D.R.の大統領就任の2カ月前の 1933年1月にヒットラーがドイツ首相に就任している。

(2)大統領就任第一声
 内外の危機的に困難な状況の中で大統領となったF.D.R.は、必ずしも明確な解決策は持ち合わせていなかった。彼は一貫した政策構想やイデオロギーなどは初めから殆どなかったようだ。
 しかしながら、政権についたF.D.R.の大統領就任演説第一声は、おそらくいかなる具体的な政策案よりも国民に希望と自信を与え、気持ちを奮い立たせるような響きを持っていた。(下記演説原文抜粋参照)

 彼は就任演説で、「何よりも先ず、私の信念を述べさせていただきたい。すなわち、われわれが今、恐れなければならないのは“恐怖心を持つこと、そのものである”( nothing to fear but fear itself)」と述べて、国民の精神的支柱ともなるべき信念を示し、「国民は行動を求めている。しかも今ただちに実行に移らなければならない」と指摘し、そして、「緊急事態に対処するために、外敵の侵入時に与えられる権限と同等の強力かつ広範な行政権を大統領に与えるよう要求する」と決意を表明した。

 これはある意味では行動すること自体を目的とした宣言に過ぎず、またこの宣言は独裁政治をうみだすおそれもあるものだった。だが、こうした楽観的とも言える自信にあふれた態度こそ、F.D.R.の成功の鍵であり、国民の不安と動揺を静める効果をもっていた。

 次の週に彼は国民から45万通の手紙を受け取ったほどであった。そして大統領就任に続く100日間に、彼は素晴らしい指導力を発揮し、その成果はともかく、国民の期待に充分こたえたのである。

 そしてF.D.R.政府は、発足後直ちに行動を開始した。3月9日に招集された 100日間の特別議会の会期中に次々と法案を打ち出し、議会は行政府の意向に沿って、それらを制定していった。それは、まさに、F.D.R.が就任演説で述べた、外敵の侵入に対して立ち向かっているような敏速さであった。 

(3)銀行危機の救済
 F.D.R.が最初に直面した課題は、アメリカ全土の銀行をマヒさせた金融危機に対処することであった。そしてF.D.R.政府がその時、採用した政策は、ある意味でニューディール全体の基本的な性格を示唆するものといえた。

 事実上機能を停止していた銀行機関に対し、政府の取るべき方策は次の三通りが考えられる。即ち、
政府は放任主義の立場から、それを放置し、崩壊するに任せる。
逆に国有化政策を断行し、社会主義の方向に向かって第一歩を踏み出す。
それとも、政府の統制力の拡大、資金面での援助など、あらゆる政策を動員し、国家権力のてこ入れでもって資本主義経済機構を再建する。

これらのうちで、F.D.R.が採用したのは、政府の援助による銀行の救済という三番目の方策だった。ニューディールは、そのスタートにおいて、自由放任主義は放棄しながらも、社会主義への道は拒否し、いわば、政府と資本との結び付きによって、体制の立て直しを図ろうとしていることを明らかにしたのである。それは一言で言えば、「国家独占資本主義」を形成する道であった。

 大統領に就任した翌日、F.D.R.は、法的根拠はきわめて疑わしかったが、政令をもって、金の取引を停止し、全国の銀行の休業を宣言した。これはこれまでの非常事態をそのまま凍結したのにすぎなかったが、その間に国民の緊張感を解き、本格的な立法を制定する時間稼ぎとなった。 

(4)100日特別議会の開会と緊急銀行法案の提出
  1933年3月9日、特別議会が戦時危機の雰囲気の中で開会、F.D.R.は緊急銀行法案を議会に提案した。議会開会の冒頭、新人議員達などは自分の議席を探してうろうろしている間に大統領は法案(銀行教書)を読み上げ、法案の写しも配布されることもなく、 38分後には採決に応じなければならない有り様だった。下院で採決された法案はただちに上院に送られ、下院議員達は上院の議場に殺到し、その説明をもう一度聞いたほどだったという。但し、法案は就任演説で示されたような激しい銀行家攻撃はすっかり影をひそめ、銀行を再開するために政府の援助の手を差しのべようという保守的な性格のものだった。

 だが、同時に大統領が既にとった措置を合法化し、金の移動に関して大統領に完全な管理権を与え、金の退蔵を禁止し、あわせて政府の監督の下に銀行の再開や再組織を行うことを決めるなど、政府の権限の大幅な拡大が認められた。

(参考:F.D.R.大統領就任演説原文抜粋)
Franklin D. Roosevelt, "First Inaugural Address," 4 March 1933
(前略) I am certain that my fellow Americans expect that on my induction into the Presidency I will address them with a candor and a decision which the present situation of our Nation impels.
 This is preeminently the time to speak the truth, the whole truth, frankly and boldly. Nor need we shrink from honestly facing conditions in our country today. This great Nation will endure as it has endured, will revive and will prosper. So, first of all, let me assert my firm belief that the only thing we have to fear is fear itself - nameless, unreasoning, unjustified terror which paralyzes needed efforts to convert retreat into advance. In every dark hour of our national life a leadership of frankness and vigor has met with that understanding and support of the people themselves which is essential to victory. I am convinced that you will again give that support to leadership in these critical days.(以下略)
――― 以下次号に続く ―――
  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「」

今週はお休みです。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

 お多福がいる団欒の真ん中に

無洗米なんてと母の台所

ばあちゃんのやる気に茶柱が二つ

百薬の長と仲良く老いの職

後期高齢なんの明日の予定表

( ニュースやぶにらみ )

「最後はイチロー」
だよな  − 一郎

「公示地価」
3年ぶりの下落とはよく頑張った −内閣支持率

「吉田茂邸全焼」
戦後昭和がまた一つ消えたか −憲法九条

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

句会場(千駄木)周辺ぶらり散歩(19)
*藪下の道 @
観潮楼のちょっと先の団子坂上交差点を右折、車が1台通れるほどの道が、永井荷風が絶賛した藪下の道です。
永井荷風『日和下駄』より。「根津の低地から弥生ケ丘と千駄木の高地を仰げばこゝもまた絶壁である。絶壁の頂に添うて、根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の道がある。私は東京の往来の中で、この道ほど興味のある道はないと思っている」 土地の人は昔の面影はほとんどなくなったと言っていられますが、東京下町の車だらけの街に住んでいる私にはこの崖道 坂道が気に入って、私は今様の荷風を気取って歩いています。 
森鴎外『細木香以』(大正6年)より。「団子坂上から南して根津権現の裏門に出る道に似た小径がある。これを藪下の道と云ふ。(略)崖の上は向岡から王子に連なる丘陵である。そして崖の下の畠や水田を隔てて、上野の山と相対してゐる。彼小家の前に立って望めば、右手に上野の山の端が見え、此の端と忍岡との間が豁然として開けて、そこは遠く地平線に接する人家の海である。」 藪下の道に入ってすぐ右が観潮楼の表門跡です。その少し先左が,区立八中、そして汐見小学校の校庭が足元はるか下にあり、昔は崖道であったことに納得します。ここの崖を下る道が「しろへび坂」。昔はここから品川沖が見えたと言われていますが、今はマンションに視界がさえぎられているのが残念です。
 

森田さんから

今週はお休みです。

龍翁余話

龍翁余話(74)「春の浅草・コンサート」

久しぶりの浅草だ。3月28日夜、浅草ビューホテルで開催される友人の熊坂さんご一家による『ディナーコンサート』を聴きに行く前に“春の浅草”を散策した。大川(隅田川)に架かる桜橋・言問橋・吾妻橋の約1kmの間に植えられたソメイヨシノ、シダレザクラ、サトザクラ、エドザクラなどの桜トンネルは、徳川8代将軍吉宗が庶民にも花見をさせようと開放した由緒ある堤桜。例年より1週間早い開花宣言だったから、すでに満開の花が見られるだろうと期待して吾妻橋(遊覧船乗り場)に出かけた。土曜日の昼下がりとあって、なるほど人また人の波。ところが、だ、“お〜い、桜はどこだ?”・・・・何分咲き、なんてもんじゃない、まだ蕾ではないか、にもかかわらず、桜木の下一帯には青いシートが隙間なく敷かれ“春のうららの隅田川”とはほど遠い寒風にさらされながら大勢の老若男女が酒宴を催している。もっとも彼らは、花は二の次、花見酒ならぬ蕾見酒でも構わないのだろう。翁、せっかくのカメラをバッグに仕舞って浅草寺へ向かう。

相変わらず、観光客の記念撮影でごった返す雷門をくぐって仲見世へ。310年ほど前(元禄
から享保の頃)に始まったといわれる仲見世は、今も人気の観光スポット。この日も大混雑。東側に54店、西側に35店(計89店)、大部分の観光客はそれらの店を横目で見ながら寸歩き。浅草寺本堂の手前・宝蔵門までの250mを歩くのに約15分もかかった。世界規模の経済不況と円高で外国人観光客の激減が伝えられる中、確かに外国人の姿は少なかったように見えた。本堂(観音堂=改修工事中)はさすがに大盛況。景気回復への“神(仏)頼み”だろうか。人混みの嫌いな翁、遠くから参拝して静かな影向堂(ようごうどう)へ。影向とは“影は形に従い、響きは音に従う。これ、仏の心なり”という意味だそうだ。翁呟く“政治は民の意に従い、行政は民の声に従う。これ、政(まつりごと)の心なり”と。

目的の浅草ビューホテルは直ぐ傍だが、まだ時間があるので浅草六区を散歩する。『六区』(浅草公園六区)とは、明治、大正、昭和を通じて興業.活動写真(映画)などで賑わった東京屈指の娯楽街だった。かつてはエノケン、古川ロッパ、田谷力三、浅香光代、伴淳三郎、坊屋三郎、大宮デンスケ、コロンビアトップ、由利徹、南伸介、渥美清、萩本欽一、ピートたけしらがこの地で名を上げた。現在では、数軒の映画館と浅草演芸ホール(落語協会と落語芸術協会が10日替わりで交互に公演を行なっている寄席)が昔の面影を残しているだけ。うろうろ歩き回っているうちに会場の浅草ビューホテルに着く。ここは以前、浅草国際劇場だった。“西の宝塚、東の松竹“と呼ばれ、松竹歌劇団(SKD)の本拠地であり、東洋一のレビュー劇場であった。昭和3年に発足したSKDは、水の江滝子、西原エリ子らによって第1期黄金時代が築かれ、第2期には川路龍子、小月冴子、第3期には千羽ちどり、藤川洋子らのスターを生んだ。楽屋(当時)の近くの小さな喫茶店(今も営業している)『シルクロード』は、幹部団員たちのたまり場だったとか。当時の懐かしい写真やポスター、パンフレットなどが保存されている。入り口の上の方にあるラインダンスの古びた看板が往時を偲ばせる。

ホテルの最上階(28階)の宴会場から眺める夜景は、新宿や銀座の煌びやかさはないが、落ち着いた下町の格別な趣がある。今夜のディナーコンサートは、熊坂良雄さん(バリトン)、夫人・牧子さん(ソプラノ)、子息・正美さん(バリトン)と妻・百合絵さん(ピアノ独奏と伴奏)の、まさに熊坂ファミリー・コンサートだ。フルコースのディナーのあと、百合絵さんのピアノ演奏『さくらさくら』でコンサートは始まる。雅(みやび)を醸し出す琴調の演奏テクニックに、昼間見た隅田川の桜の蕾が一瞬に咲き誇ったかのような幻覚が脳裡をよぎる。良雄さんの歌声は、これまでに何回か聴かせて貰ったが、また一段と磨かれたバリトンで味わいが深まった。息子さんの正美さんとの出会いは今夜が初めて。シューベルトの『春の信仰』、『セレナーデ』、映画音楽の『慕情』などを聴かせて貰ったが、さすが音楽家カップル・熊坂夫妻の血を受け継いでいるだけに確かな美声と声量の持ち主、今後が大いに楽しみなバリトン歌手である。

いつも聴く人の心に響く歌声が牧子さんのソプラノ。本格派のオペラ歌手だが、クラシック、ポピュラー、歌謡曲、童謡など演奏ジャンルは広い。客席を縫って歌う『夜来香』(昭和13年、山口淑子の歌)も会場を唸らせた。そして今夜、翁への最高のプレゼントと(勝手に)思えた『アヴェ・マリア』・・・牧子さんの『アヴェ・マリア』については昨年2月配信の『龍翁余話』(20)でも書いた。そこから抜粋しよう。
・・・美しいソプラノの『アヴェ・マリア』が会場を厳かなる聖堂へと変える。
ステージの熊坂牧子さんの姿が大浦天主堂(長崎)の『マリア像』と重なる。
それほどに気高く荘厳なる歌声に、翁は息を呑む。いや、観客の誰もが、
その瞬間、敬虔なるクリスチャンになっていたのかもしれない・・・

エンディングは『マイウエイ』。故フランク・シナトラやプレスリー、日本では布施明が歌ったポピュラーソング。
♪いま船出が近づくこの時に ふとたたずみ 私は振り返る
   遠く旅して 歩いた若い日よ すべて心の決めたままに
   愛と涙と ほほえみに溢れ いま思えば楽しい思い出を
君に告げよう 迷わずに行くことを 君の心の決めたままに
私には愛する歌があるから 信じたこの道を 私は行くだけ
すべては心の決めたままに・・・・
親子3人で熱唱したこの歌は、良雄さんと牧子さんの共に歩いた歴史であり、息子(正美さん)夫婦への熱いメッセージでもあろう。ならば翁、この歌のタイトルを置き変えたい『アワーウエイ(私たちの道)』っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。
 

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

これまで女性シンガーばかり紹介してきましたが、今回は男性シンガーをご紹介します。いつだったか忘れましたが、テレビの番組で佐藤竹善を紹介していたのを観てすぐにアルバムを聴きました。彼のさわやかではりのある歌声がとても気に入りました。昨年、息子たちの結婚式でハワイに行ったときも、携帯オーディオに佐藤竹善の歌を入れて飛行機の中で聴いていました。以前ヒットした曲を彼の歌い方で仕上げているアルバムです。これを音楽のジャンルではAOR(Adult Oriented RockとかAlbum Oriented Rock)というそうです。

"ウタヂカラ" 佐藤竹善(さとうちくぜん)

01.万里の河
(作詞・作曲: 飛鳥涼)
02.サヨナラ -album version-
(作詞: GAO/作曲: 階一喜)
03.初恋
(作詞・作曲: 村下孝蔵)
04.真夏の果実
(作詞・作曲: 桑田佳祐)
05.雨の物語
(作詞・作曲: 伊勢正三)
06.桜坂
(作詞・作曲: 福山雅治)
07.ロビンソン
(作詞・作曲: 草野正宗)
08.そして僕は途方に暮れる
(作詞: 銀色夏生/作曲: 大沢誉志幸)
09.俺たちの旅
(作詞・作曲: 小椋佳)
10.「いちご白書」をもう一度
(作詞・作曲: 荒井由実)
11.少年時代
(作詞: 井上陽水/作曲: 井上陽水・平井夏美)

<R.O.>

編集後記

もうすぐ四月になろうとしているのに、また寒さが戻ってきてしまいましたね。JR沿線の桜がまだ咲きません。今週あたり楽しみにしています。
雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
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Zakkaya Weekly No.672

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com