龍翁余話(73)「ああ、忘れまじ硫黄島」
この時期になると「太平洋戦争の激戦地・硫黄島」のことが思い出されてならない。翁、過去2回渡島した。1度目は1999年、硫黄島協会(生還者、遺族、旧島民らによって昭和28年設立、毎年遺骨収集、慰霊活動などを行なっている団体)主催の『戦没者慰霊の旅』への同行カメラ取材、2度目は2000年『日米硫黄島戦没者合同慰霊祭』の撮影だった。それまでには硫黄島に関する幾つかの本は読んでいたのだが、実際に現地に入ると、半世紀を超えているのに未だ生々しい惨状の跡が翁の目を焼き、胸を衝いた。『硫黄島の戦い』――「戦史上、かくも悲惨極まりない戦いがあっただろうか、それは、まさに地獄絵図そのものであった」(『硫黄島 勝利なき死闘』(ビルD.ロス著、湊 和夫訳より)
硫黄島は、東京から南へ約1,250キロ、東京都小笠原諸島に属する火山島。島の表面の大部分が硫黄の蓄積物に覆われているところから、この名がつけられたという。総面積22平方キロ、ほぼ品川区の広さである。この小さな島が、日米にとっていかに重要な島であったか・・・米軍は、長距離爆撃(日本本土攻撃)、緊急着陸基地の確保などで硫黄島の占拠を必要とした。当然、日本はそれらを阻止するため(本土防衛の防波堤として)硫黄島の戦略的重要性を認識し、栗林忠道中将率いる小笠原兵団第109師団、陸・海軍将兵・軍属・特年兵(少年兵)を含む22,923名を置き、長期戦に備えた。その中には在島民1,100名のうち、130人が軍属として徴用された。(あとの島民は本土に疎開させられた)
対する米軍は800隻の艦船、4000機の航空機、総数25万の兵力で硫黄島奪取にかかる。
1945年(昭和20年)2月16日、硫黄島周囲の海を埋め尽くした米軍艦船隊の中から戦艦や重巡洋艦が一斉に火を噴いた。空爆も加えられた。島の形が変わるほどの熾烈な爆弾の雨、それが連日続く。そして19日朝、6時40分から2時間かけてB29爆撃機の大編隊による空爆と沖からの艦砲射撃が全島を襲い、その間、120機の艦載機が上陸地点へ執拗な爆撃。そして海兵隊約9000名(夕方までに4万名)が戦車200輌と共に南海岸へ上陸。そこから日本軍の反撃(迎撃戦)が始まる。
栗林中将は持久戦にそなえ、島内に全長18キロにも及ぶ地下壕を作り、随所に点在する自然の洞窟を利用してこの戦いに備えた。しかし日本軍は、飛行機は勿論、武器弾薬、食糧、飲料水、医薬品などが乏しい上に、50度を超える蒸し風呂のような地下壕や洞窟に立て篭もっての迎撃戦を強いられ、将兵たちの体力消耗は日増しに激しく、熱病、栄養失調で倒れる兵も続出、おまけに中盤以降は殆んど弾薬が底をつき、日本軍は精神力だけで白兵戦(刀剣などの接近戦闘)や自爆戦に転じたという。その悲惨な戦闘状況を、翁の拙筆で再現することは英霊たちに申し訳ないので割愛するが、当初、米軍側の「あんな島は5日で陥落させる」の予想に反し日本軍は、栗林忠道兵団長(陸軍中将)指揮のもと、市丸利之助第27航空戦隊司令官(海軍少将)、千田貞季混成第2旅団長(陸軍少将)らが共同して見事な持久戦を展開し、圧倒的な兵力・兵器を有する米軍上陸部隊に多大な損害を与えた。しかし米軍上陸後約1ヵ月足らずで日本軍は大多数の将兵を失い、栗林兵団長は遂に3月17日、大本営に訣別の電文を送った。
“戦局遂に最期の関頭に直面せり。小官自ら陣頭に立ち皇国の必勝と安泰を念願しつつ全員壮烈なる攻撃を敢行する。我が将兵の勇戦は真に鬼神をもなかしむるものあり。しかれども今や弾丸尽き水枯れ、戦い残る者全員いよいよ最後の敢闘を行わんとするにあたり、ここに永久のお別れを申し上げる(要旨)“
17日夜半から将兵たちは、文字通り決死の白兵戦を展開するもあえなく斃れ、3月26日、栗林兵団長以下300余名の将兵は北部(天山)を出発して最後の総攻撃を敢行、全員玉砕。これをもって日本軍の組織的戦闘は終わった。日本軍の戦死者21,900名、戦傷者1,020名(計22,920名)、米軍の戦死者6,821名、戦傷者21,865名(計28,686名)。日本軍生還者は1023名。(数字は資料によって多少異なるが、厚生労働省資料を採用した)
翁が初めて訪島したのは1999年3月、硫黄島協会“慰霊の旅”参加者100名と共に航空自衛隊入間(いるま=埼玉)飛行基地から大型輸送機で硫黄島へ。同島に駐屯する海上自衛隊の車数台に分乗して激戦の跡を訪ねる。全島を一望できる擂鉢山(標高169m)に登る途中に幾つかのトーチカ跡や破壊された大砲、弾丸跡がここかしこ。頂上には米軍占領記念(星条旗を掲げる海兵隊)レリーフ、各県の石で造られた戦没者慰霊碑、壮絶な空中戦を展開したゼロ戦(第1、第2御盾)攻撃隊の顕彰碑・・・旅人たちは黙々と(思い思いに)水や花、酒、お菓子などを供える。
翁たちの車は東海岸へ。ここには昭和7年のロス五輪(馬術障害)ゴールド・メダリスト“バロン(男爵)西”こと西 竹一大佐(戦車連隊長)戦死の碑が建てられている。話は前後するが、翁が何故、この“慰霊の旅”の同行取材を思い立ったか、実は、翁の友人で西大佐のご子息・西 泰徳氏(硫黄島協会副会長)のお誘いがあったからだ。父君の碑に献花し合掌する泰徳氏の目に涙・・・
五輪メダリストと言えば、同じロス大会に出場し、水泳の100m自由形で銀メダルを獲得した河石達吾選手(広島県出身=陸軍大尉)がいる。奇しくも西大佐と時を同じくして硫黄島で戦死。翁、その人の名も決して忘れない。
それにしてもこの東海岸一帯は強烈な硫黄の臭いが鼻をつく。西大佐ら戦車連隊は、こんな場所で死闘を展開したのだ。熱砂の浜に点在する小岩群が将兵たちの英姿に映る。翁、撮影を終え目礼して、早々に北部・天山に向かう。
栗林兵団長以下将兵300余名が最後の総攻撃に出発した地・天山の慰霊塔前で厳かに慰霊祭が行なわれ、その後、またグループごとにそれぞれの車に分乗して戦跡を訪ねる。翁は『医務科壕』(医療活動をした洞窟)へ。未だ壕の土の下には数え切れない将兵の遺骨が埋もれたままになっているという。翁一人、入り口で黙祷して壕に入りカメラを回す。霊気が背中をよぎる。涙でレンズが曇る。翁、心の中で英霊たちに語りかける「祖国防衛のために戦ってくれた皆さん、本当にありがとう!皆さん、私のカメラの中に入ってください。私があなた方を“母国”に連れて帰ります」・・・
昭和26年から始められた硫黄島戦没者の遺骨収集活動は、これまでに60数回。収集された遺骨は8,611柱(平成19年度現在)。未だ12,000余名の遺骨が熱砂の下に埋もれ、密林や洞窟の中に放置されたままになっている。遺骨収集問題は硫黄島に限ったことではない。
フィリピンや南の島々でも多くの戦没者の遺骨がそのままになっている。戦後64年の経過の中で現地の地形は変わり、情報も少なくなってきた。つまり、遺骨収集活動は年々困難さを増している。そして問題は、旧戦地に取り残された遺骨に対する“思い”が薄らいでいることである。国のために尊い命を捧げた人たちの遺骨を祖国に帰してあげるのが国家の責任であるはずなのだが、その意識と論議は、だんだんと遠のいて行く。それでいいのだろうか・・・
さて、翁たちを乗せた車は西海岸へと向かう。生還者Kさんの案内でジャングルにも入る。「ここはまだ、あの時のままだ。水がないので木の葉の汁をすすった」・・・当時の惨状と亡き戦友を思い出しているのか、Kさんの(生い茂った樹木を見上げる)表情が険しい。
『平和記念墓地公園』(旧島民墓地。その中には戦闘に参加した130名のうち82名の犠牲者も含まれる)で慰霊の鐘を鳴らす。平成6年には天皇皇后両陛下が巡幸されている。
翁たちの車は中央部に戻る。『鎮魂の丘』を巡り、最後は『硫黄島戦史資料館』―― 焼け爛れた軍服、錆びた銃剣、小銃、軽機関銃、ガラス瓶で作られた手榴弾、手製の草履、撃ち抜かれたヘルメット、朽ちた飯盒、ボロボロになった“武運長久”の千人針、変色した故郷からの手紙などが涙をそそる。(それらの一部が靖国神社・遊就館に展示されている)
硫黄島の英霊に捧げる鎮魂歌『あなたは今、何処に』
♪あなたは今 何処にいますか? 水もない 食べ物もない熱砂の中で
語り合う友もいないジャングルの中で あなたは今もじっと耐えているのでしょうか?
過ぎし日 あなたは戦った 祖国のために戦った 辛かったろう 苦しかったろう・・・
地獄の絵図を忘れません あなたのことを忘れません 本当に 本当にありがとう!
だから もう帰りましょう 愛する故郷へ 帰りましょう (抜粋)
靖国神社の桜が咲き始めた。花見に興じるもよし。されど、この花びら一枚も見られない硫黄島や南の島々に残る英霊たちを忘れるなかれ。感謝と慰霊の心を忘れるなかれ・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。
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