毎朝起きたらすぐにめくっている「ことば日めくりカレンダー」(K作)の一枚に、『Yes・・・YesとNOの間に“わからない”がある』という言葉がある。1〜31の日付に書かれた言葉が1年間で12回めぐることになる。もう5年近く愛用しているこの日めくりだが、多くは新しい朝の元気をもらったり、ブルー気分の月曜日に背中を押されたり、仕事の勝負日に覚悟をもらったり、空しい日々を慰め・癒されたりするものだ。しかし、中には、私にとってどうもピントこないものもあった。その一つがこれ『YesとNOの間に“わからない”ものがある』だった。何事も「白か黒かはっきりが好き(したい・して欲しい)」という性分の私には理解しがたい中途半端だと感じていた。しかし最近は、私たちの人生、仕事も生活も、何かで“割り切れない”もの、つまり白でも黒でもなく、“わからないもの”というのが意外に多いものだと気がついた。
“割り切れない”といえば、よく『数字では割り切れないものがある』などという言葉を耳にする。先日、ミーティングから席に戻ったら、机上に伝言が残されていた。日本で二番目に行った大学のA教授、卒論を中心に師事した恩師のひとりからだった。翌日、20年ぶりに東京で再会が実現、積もる話や思い出話に花が咲く中で、驚くべく事実が飛び出した。なんとこの恩師、A教授は
自称“S大学のさだまさし後援会会長”だといい、さだまさしの歌のいくつかを紹介してくれた。その中の最初にでてきた歌が「3分の1」、A教授なりの歌詞解説付きだ。私の初めて聞く歌(歌詞)だった。キリストを信じ生きて行くということを徹頭徹尾貫いている敬虔なクリスチャン教授としても有名なA教授から、さだまさしの名前が出たことも驚きだったが、さだまさしの歌を知らない自分にも、そしてA教授が教えてくれたこの歌(歌詞)の良さにも驚いた。
以下に歌詞を抜粋(作詞作曲・さだまさし)
『生きるということの1/3は哀しみで出来ている、生きるということの1/3は悔しさで出来ている、残りの1/3はね 笑うことで出来ているはずさ、きっときっと生きるということはそんな風なものなんだ、泣きすぎても悔しすぎても笑いすぎてもきっといけないのだろう。1/3は何処まで行っても割り切れることがないように、生きるということも、何処まで行っても割り切れないのかな。きっと人を愛しながら、きっと人を憎みながら、その手のひらに最後に残る1/3はきっと笑顔なんだろう』。さらにこの歌はさだまさし自身による解説が添えて歌われるらしく、『私を好きだという人がある。私を嫌いだという人がある。別にどちらでもないという人もある。嫌いな人が1/3。好きな人も1/3。どちらでもない人が1/3。これは、最初から最後まで変わらない。つまり、どちらでもない人が、“どちらかというと好き”になるか、どちらでもない人が、“どちらかというと嫌い”になるか、そんなことで、私への世間の評価は決まります。だから、悔しくも悲しくもないのでしょう。何故なら、どんなに嫌われても1/3は好きな人がいてくれるからです。逆にちやほやされても1/3は嫌いな人がいます。実はそういうことなのです。誰でもがその比率の中で生きています。生きることの黄金比。それが1/3なのかも。大したことはないのです。生きてゆきましょう』・・・なんとも、すごい歌(歌詞)だなと、驚いた。
独りでがむしゃらに生きてくると、誰かと供に生きている共同者たちに比べると、生活や性格に偏りが大きいと思う。自分自身がそうだった。国内外で、人として、日本人として、女性として、プロフェッショナルとして鎧(よろい)を着ると、白か黒の答えでなければ安心できないものだったと今気づく。3分の1ずつ足しても10にはならない人生の、わからない部分は、愛や信頼や希望といった理屈や形では割り切れない、わからないものなのだと思う。それは中途半端なのではなく、あるがままを受け入れて生きるということなんじゃないのかと思う。そう思うと、小さなことではなく大きなことが、見えてくるようで、自分が豊かな気持ちになるから不思議。哀しみと悔しさと笑い・・・みな平等、人生堪能ってことだね・・・っと呟く、さくらの独り言。 |