龍翁余話(17)「読書」
寒い日が続く。寒さに弱い翁、加齢とともに、いよいよ寒さが骨身にこたえる。おまけに(何を食ったか)数日前からジンマシンにやられ、体中、引っかき傷が絶えない。外出も億劫で家に閉じこもりがち。毎年「今年こそは」と意気込みだけでも沸き立たせなければならない新春としては、まことに情けない不調な出足だ。しかし、心身が萎えたまま貴重な日々刻々を無駄にしたくはない、と思い、読書に耽った。
その1つが、親友Kさんに薦められた藤沢周平の『密謀 上・下』(新潮社)。もともと、Kさんは藤沢ファン。一方、翁は藤沢作品が好きではない。あの陰鬱で理屈っぽい藤沢作風が翁の性に合わない。しかし、「龍翁さんの好きな直江兼続(なおえかねつぐ=上杉景勝の執政)が主人公ですよ」の一言で早速、本屋で買い求め、読んだ。面白い!・・・藤沢周平のことも作品のことも、ろくに知らないくせに、1,2冊読んだだけで、陰鬱だの、理屈っぽいだの、軽率な批判をするものではないな、と、翁、反省しながら『密謀』に没頭した。昨年読んだ『天地人』(火坂雅志著)と重なって、戦国大名たちの謀略(駆け引き)、権力欲の渦巻く中、ひたすら上杉謙信の“義”を貫いた兼続の生き様(利で動く者は、利に滅ぼされ、義で動く者は、義に救われる)が、より鮮明に、より新鮮に翁の心に響いた。
もう1冊の本、福岡に住む親友Mさんから薦められた『千年の祈り』(アメリカ在住の中国人女流作家・イーユン・リー著、篠森ゆりこ訳、新潮社)。離婚した娘を訪ねて中国からアメリカへやってきた老父が、娘との埋められない感情的溝で心を痛めている中、ある日、公園で出逢った婦人に恋心を抱く。早い話が“老いらくの恋”だ。老父は、その婦人に胸の内を明かしたいが、思うように英語で話せない。そこで彼は、中国語で『修百世可同舟』(シウ パイ セ クウ トン ジョウ)を語る。誰かと同じ舟に乗るには、300年祈らなくてはならない(長い年月の祈りがあって、人は本当の出会いに辿り着く)と作者は解説しているが、“祈る”という文字が見当たらない。そこで翁、さっそく台湾の朋友C氏=元大学教授)に問い合わせた。彼いわく「修百世可同舟は、朱子(1100年前の中国・宋時代の儒学者)の言葉。修は、全霊を傾けて(学問や仕事に)励むこと。それは生半可なものではなく、その人の持つ全魂をぶっつける激しい情熱であり祈りでもある。百は、単なる100ではなく多くの数を意味する。世は世代、世紀。可は、成る・・・・」さらに「人間の持つ誠心(思い)と努力が、不可能と思われる物事を可能にする」と付け加えてくれた。
その意味から言うと、『精神一到、何事か成らざらん』(精神を集中させて物事にあたれば、
どんな難事も出来ないことはない)という諺がある。(英文ではWhere there is a will, there is a
way=意志あるところに道がある)これも、たしか朱子学の教えではなかったかな?
ともあれ、翁、この『修百世可同舟』が気に入って、今年2回目の書初めとして色紙に書きとめた。
あまりにも気合いが入らない1月、と思っていたが、親友Kさん、Mさんのお薦めによる本のお蔭で、やっとエンジンがかかりそうな翁、まだ完治しないジンマシンを抱えたまま、昨日、今年2度目のゴルフに出かけた。『修百世可同舟』をもじって“雖然修百世不能随意高爾夫球”(幾ら歳月をかけたといえども、ゴルフは意のままにならず=翁流中国文)それがゴルフ(高爾夫球)だが、意のままにならないところがゴルフの魔力かもしれない。その魔手に引っかき回されて昨日のゴルフはさんざんなスコア。しかし、“精神一到”によって、バンカーショット(砂場からの脱出)に対する苦手意識がなくなったことは何よりの収穫。だから、また挑戦したくなる。もはや翁“修百世”とはいかないが“修百日”なら、仕事にゴルフに交友に、まだまだ誠心を注ぐ情熱と努力(意欲)は残されている。生きてきた証(あかし)を掴むまで祈り続けよう、っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |