weekly

NO.604                Ryo Onishi              12/9/2007  

 weekly

 

LAの観光スポット ホームページ バックナンバー
 .
雑貨屋のひとり言

会社をリタイアされた雑貨屋読者(私たちの先輩)の中條さんが、埼玉県浦和から京都三条大橋まで598kmを自転車で走破されました。とても元気な中條さん、次は歩きでしょうか?それとも世界に挑戦するのでしょうか?楽しいチャレンジに期待したいものです。もし良かったら雑貨屋に面白い記事を書いていただくのも・・・・・。雑貨屋のひとりごとです。
カリフォルニア州の禁煙の法律、進んでいますね。JRの駅では駅構内全面禁煙といいながらタバコの自動販売機をホームに置いているというかなり矛盾したことをやっています。中途半端ですねー。(R.O.)

カリフォルニア禁煙事情(2)

  ――― 前号より続く ―――
米国内でも一段と禁煙に関する先進地域であるカリフォルニア州は、1994年には働く場所での喫煙を禁止する法律を成立させ、1998年には壁で囲まれた場所における喫煙を完全に禁止する法律を成立させています。また同年、職場で働く従業員を、間接喫煙から守る目的で、レストラン、クラブ、バーまでもが禁煙の範囲とする禁煙条例が施行されました。

レストランやクラブで働く従業員は職場がタバコの煙に満ちていた場合、副流煙から逃れるすべはないわけです。医学専門誌によると、8時間このような環境で働いている人は、自分の意思とかかわらず、1日1箱分の煙草を吸っていることになるのだそうです。

 また、この州は全米でも早くから受動喫煙の被害に注目していた州として知られ、今年(2007年)1月には、初めてタバコの煙を「大気汚染物質」と認定したほどです。スモーカー(喫煙者)に対する包囲網が近年、ますます狭くなってきました。

カリフォルニア州全体としては、先日シュワルツェネッガー州知事が18歳未満の子供が同乗する自家用車内での喫煙を禁止する法案に署名しました。子供の受動喫煙を防ぐのが目的で、2008年1月に発効することになっています。

さらに、州全体ではありませんが、州内の一部の市では喫煙禁止を市議会が条例として法案化するところが相次ぎ、従来の職場や飲食店など公共スペースに加え、個人のアパート室内や車中といった私的空間での制限する規則を定める市まで現れています。

州北部ベルモント市議会は全米で最も先鋭的で厳格とも呼ばれる禁煙条例を暫定可決し、2009年1月から分譲マンションや賃貸アパート室内での喫煙を禁じ、罰金も最大千ドルと高額になっています。これらのアパートのような私的空間では苦情が続けば、喫煙者に退去を命じる可能性さえありうることになっています。そうなるとこの市では喫煙が可能な場所は、1戸建ての敷地内か、近くに民家がない路上くらいになってしまうようです。

新聞報道によると、ベルモント市は複数の高齢者向けのアパートやコンドミニアムの住人から、隣室からの副流煙で健康被害を受けているという訴えを受け、アパートやコンドミニアムでの喫煙禁止を法案化することに決定したとありました。当初、この市当局は、市内全域のいかなる場所も禁煙とする方向で検討を進めていのだそうです。これに対し、市議会が妥協案を出すかたちで、「共有空間を有するあらゆる建物を禁煙とする」ということで最終的に決着したのだそうで、この市当局の禁煙に対する意気込みのすごさを感じます。

愛煙家にとってはまことにお気の毒としかいいようがなく、彼らにとってこれらの規則は地獄の苦しみ条例といわれそうですね。

最近の新聞記事によると、カリフォルニア州では上記ベルモント市だけでなく、例えばロサンゼルス近郊の超高級住宅地として知られるビバリー・ヒルズ市ではレストラン屋内だけでなく、屋外席を全面禁煙としようとしています。

また、同じくロサンゼルス郊外の高級住宅地でありマリブ海岸近くのカラバサス市は「クリーン・エア・カラバサス」のキャッチフレーズの下、禁煙都市を宣言し、今年(2007年)3月には、すでにカリフォルニア州法で禁煙とされている職場、公共の施設などの屋内や公園・子供の遊び場などの屋外だけでなく、「特に指定された場所以外」のあらゆる屋外での喫煙を禁止する条例を制定しました。

この条例は全米でも極めて厳しいレベルのものであり、集合住宅の共用施設、ショッピングセンター、レストラン、バーなどの多数の人が利用する場所と、その出入り口は全て禁煙。また、非喫煙者から20フィート以内の屋外では、非喫煙者の同意がなければ喫煙できないことになります。

尤も、マリブ付近は山火事の起きやすい地域でもあり(今年、2007年10月、11月に大きな山林火災がおきました)タバコの火の不始末による火災防止の意味合いもあるようです。

 一方、このようにアパート内のような私的空間にまで規制が及ぶような極端な禁煙条令に対し、米国らしい自由と権利を主張する主張もあるようで「自宅内までも禁煙の対象にするのは公民権および不動産所有の自由に反する」との反発も出ており、折角作った禁煙条例からアパートとマンション内での禁止条項を削除した市(オークランド市など)もあるようです。

先日、私は日本へ一時帰国した際、鉄道駅のホームの隅にわずかに設置された喫煙コーナーで片寄せあって喫煙する人たちを見かけました。また、友人の一人が「最近は女房よ娘がうるさくてマイカーでも自宅の居間でもタバコを吸えず、ベランダで淋しく一服しているよ」と嘆いていました。

私は日本へ行くたび、友人知人に「アメリカに遊びに来ないか。面白いところを案内するよ」と言い回っていますが、彼にだけは言いそびれています。近年日本人の喫煙率もかなり低くなっていると聞きます。かつてはテレビやラジオで「タバコは動くアクセサリーです!」などと広告し、甘い言葉で誘惑しておきながら、今になって「悪魔の煙」と罵しられても納得いかない愛煙家も多いことでしょう。すでに喫煙習慣のある人にとって禁煙がどれほど困難であるかよく聞くことです。私は45年前、中毒になる寸前に喫煙を思いとどまさせてくれたあのテレビ番組に今更ながら感謝しているところです。 
  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言筆ペン

久しぶりに、甥(勝久)に会った。彼のワイシャツの胸ポケットから、3本のペンが顔を覗かせていた。それは、黒のボールペン、赤のボールペン、そして筆ペン。25歳という若い彼が、筆ペンなるものを常時携帯していることに、私は大変驚いた。そして、何故甥が、筆ペンを愛用しているのか、どんな時、どの様に使うのか、いつから持っているのか、など等、率直に彼に聞いてみた。彼の回答に私は、色々なことを示唆され、甥の成長に胸が熱くなった。筆ペンが、人間の細さ太さを教えてくれる魔法のペンに思えた。

その甥が筆ペンを持つようになったのは、就職して従事した直上司の影響だったといい、その直上司は、勿論、筆ペンを常時携帯しているという。甥の回答を要約すれば、甥がその上司のもとに配属になった時、一本の筆ペンを貰ったこと、その時から、筆ペンをいつもポッケに入れていること、使い始めたこと、人の名前(名札)や宛て先または文、手紙などを書く時にも使うこと、という話の内容だった。そして最も私が驚いたこと、それは、「筆ペンってね、とっても便利なんだよ、どんな大きさの文字でも書けるからね、一本で済むんだよ、凄いよね」と、胸ポケットから無造作に取り出した筆ペンを立てながら言った甥の、この言葉だった。一本の筆ペン、甥の手によって、細く、または太く、線を描き、字を創っていく・・・魔法のペンみたいに感じた。もともと綺麗な字を書く甥ではあったが、最近彼の描く字は“いい字”(“味のある字”)になってきたと、私は思う。

ところで、私たちの日常生活の中では、メーカー名を知らず、商標名を、あたかも普通名詞と思って使っているケースが多い。例えば、絆創膏とは呼ばず、リバテープやバンドエイドという登録商標名を普通名詞として使うようなこと。同様に、“筆ペン”は、セーラー万年筆社が1973年に開発した毛筆用ペンで、これも勿論、登録商標名。今や、どのメーカーのどの毛筆用ペンでも、私たちは“筆ペン”と呼んでいる。私が中学校に上がるまで、硯(すずり)で墨をすって書いていた年賀状だが、筆ペンの登場によってそれは変わった様に、筆ペンの活用は年賀状や冠婚葬祭関連のノシブクロなどにとどまっていた。しかし、最近の筆ペンは、その種類も豊富で万年筆感覚で文字が書け、しかも価格も手ごろということでリバイバルを呼ぶのではないかとも、巷でのささやきだ。デジカメやPCといったインフォメーションテクノロジー・ツールを使ったクリスマスカードや年賀状もいいけれど、こんなに身近にあって身近に感じていなかった“筆ペン”を、改めて手にしてみるのも、いいかもしれない。

さて、甥の言葉を耳にして、家中にある筆ペンを探し出し、それぞれを手に取ってみた。ご不幸用の薄墨ペン、普通の筆ペン、そしてペンタイプの筆ペンの3本が出てきた。筆先を生かして細字、普通に流して中字、勢いをつけて太字、なかなか面白い。一本の筆ペンが、細く、普通に、または太く、何かを描けることが魔法のようで、それを楽しめる日本人の自分が嬉しいとも思う。しかし、師走の今、“墨硯に向かいてものを考え、そして書する”という時もないのが悔しいと嘆いてもみる。でも、年始年末の休暇、家族の行事の合間に遊ぶおもちゃを見つけたなと、得をした気分でもある。一本の筆ペン、その魔法を楽しんでみようと思う。力のいれ具合で微妙に変わるその文字、私たちの生活にもあるようなことだ。細く、普通に、そして太く・・・っとつぶやく、さくらの独り言。

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )

四コマ目まだ知恵の輪が解けずいる

ゴール前ギックリ腰という誤算

ロスタイム楽しむ気まぐれな女神

ダイエットしたのは預金帳の方

片目だるま残る日数にうなだれる


( ニュースやぶにらみ )

「たらい回し」
これで偽装何軒目だ −お歳暮

「ガソリン高騰止まらず」
だれかブレーキ掛けてくれ −ドライバー

「灯油も高騰」
今年の冬は寒いぞ −ふところ

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

 

森田さんから


                   つづく                   

龍翁余話

龍翁余話(13)「母の遺言」

師走は、どうも気が重い。“年の瀬”で、気が急く、ということではない。1年を振り返って後悔に気を沈ませるということでもない。翁の“気が重い”理由は、「喪中につき・・」のハガキが年々増えることだ。差出人は、当然、知人・友人だが、中には、知人・友人のご遺族から、というのもある。つまり、知人・友人ご本人の“喪中”の報せ、これは寂しい、辛い。翁は、そのハガキを手に、しばし、故人との関わりを思い起こし、己れが歩んできた道のりと重ね合わせ、故人を偲ぶ。そして、心の中で呟く「(長年の交誼を)ありがとう。ご冥福を祈る」と・・・今日(12月9日)は、母の8回目の祥月命日。人は、故人を美化して語ることが多い。ましてや故人が身内、親友の場合は特に、である。それは、故人への敬意、懐かしみを込めての心情(心理)の働きに拠るもので、いささかも咎められることではない。が、翁は、これでも“もの書き“の端くれ、出来ることなら冷静に、客観的に「母の遺言」を語るつもりでいるのだが、果たして、どうだろうか・・・

口幅ったい言い方だが、母が喜寿(77歳)を迎えた時、翁は、母のために家を購入した。
築8年くらいの中古だったが、8LDKの広さに、母は驚き、しかし喜んでくれた。それよりも、本家(兄の家)からスープの冷めない近場に(家が)見つかったことが幸運だった。翁は勿論のこと、母も兄姉たちも皆が喜び、安心した。この“龍翁邸”に、母と叔母(母の妹)の老人2人が居住した。兄はほとんど毎日顔を見せ、兄嫁、姉(翁の長姉)も頻繁に手料理を届けた。親族一党も、何かにつけて足を運んでくれた。

翁は、母が亡くなるまでの20数年間、毎年春と夏、帰省していた。その時期、海外取材などで帰れなかった時は、行き先々から、必ず絵葉書を送った。リビングの壁に貼り付けた大きな世界地図に(翁の行き先の国を)赤鉛筆で印しを付けながら、「こんな遠い所まで、何で行かなきゃならんのかねえ」と、ボヤいていたそうだ。でも母は、その絵葉書を何回も読み返し、亡くなるまで母のベッドの小引き出しに大切に保管していた、と兄(その兄も母の死後、2年後に急逝)が翁に語ってくれた。翁が帰省の折り、翁と世評談義を交わすのを楽しみにしていた母は、毎日1時間以上かけての新聞読みを欠かさなかった。しかも、ほとんど老眼鏡は使わなかった。だいぶ前のことだが、ある時、リビングで兄と翁が談笑していたら、母が突然、「あんたたち、アフリカのアパルトヘイト問題を、どう思うね?」と投げかけた。一瞬、兄と翁は顔を見合わせ、唖然とした。“(失礼ながら)80過ぎの老人が質問するテーマかよ”と呆れたが、再度、驚いたのは「人間平等、生きる権利、生命尊重」の重要性を懸命に説く母の言葉だった。

平成12年の春に帰省した折り、翁は、母の急激な衰えに不安を覚えた。翁が帰京して間もなく、兄は母を久留米医大病院に連れて行った。“膵臓ガン”を宣告された。母に悟られまいとしていた兄の顔色をみて、母は「ガンじゃろう?隠さんでもいい、そう長くもない命じゃろうから、入院はイヤじゃ、自分の家で死にたい」。兄も母の意志を尊重した。その夏、翁は帰省した。これが母と翁の最後の別れになる。母と2人きりの時、母に呼ばれた。母はベッドの上に正座していた。「どこか痛む? さすってあげようか?」と翁が問うたら、「ここに座りなさい」。翁は母と並ぶようにしてベッドに腰をかけた。母が言った・・・
「明治、大正、昭和、平成と4代も生きさせて貰った。ここにきて、何も悔いること無し、
悲しむこと無し、恨むこと無し、ただただ、感謝あるのみじゃ」しっかりと、ゆっくり、厳かに語った母の目は爛々と輝き、顔は聖母の如く優しく微笑んでいた。“これが、母の遺言か、どんな哲学者よりも深い重い言葉だ”、と、翁は、こみ上げるものを抑えて、母に言った「母さん、ありがとう!俺、年末に帰るから、21世紀の朝陽を一緒に拝もうね」・・・
それも叶わず、平成12年12月9日、母は逝った。気丈にも、看取る兄、姉、兄嫁、叔母に微笑みと感謝の言葉を遺しながら・・・享年93。“明治の女傑”と呼ばれた母は最期まで泰然たる姿勢と威厳を崩さなかったという。
祥月命日の今日、翁、母の遺影に柿とミカンとお茶を供え、お香を焚き、合掌しながら、しばし「母の遺言」を噛み締める。そして呟く「母こそは命の泉、いつまでも俺の心の中に生きている」・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズの魅力−今週のお奨めジャズ

新しいウォークマンですばらしい音を楽しんでいます。どのジャズを入れようか、楽しく悩んでいます。今週もピアノではなくトランペットのジャズです。Booker Littleの”Booker Little”をご紹介します。Booker Littleは 1938年4月2日 テネシー州メンフィスに生まれ、1955年からシカゴに移りジャズを始めました。しかし尿毒症で23歳という若さで亡くなり、プロとしての活動はたった3年しかありません。
先日ご紹介したArt Farmerのちょっと抑え気味のやさしい音とは対照的にトランペットの高い音が前面に出ていますが、これはこれですっきりしていていいと思います。Art Farmerは夜、Booker Littleは昼間に聴いたほうがいいかもしれません。

Booker Little Booker Little
1.OPENING STATEMENT.
2.MINOR SWEET.
3.BEE TEE'S MINOR PLEA.
4.LIFE'S A LITTLE BLUE.
5.THE GRAND VALSE.
6.WHO CAN I TURN TO.

MUSICIANS
BOOKER LITTLE(Tr)
TOMMY FLANAGAN(Piano)
WIYNTON KELLY(Piano)
SCOTT LA FARO(B)
ROY HAYNES(Dr)

<R.O.>

編集後記

ビデオも観られるウォークマンのおもしろい使い方にはまっています。インターネットのビデオポッドキャストで情報を入手し、ウォークマンに取り入れて楽しむのです。落語、語学、国内・海外ニュース、スポーツ、なんでもあります。もうビデオで配信する時代なんですね。
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.604

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com