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NO.543                Ryo Onishi              10/8/2006   

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河合さんの さくらの独り言 川柳 & コント 森田さんから ホームページ
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雑貨屋のひとり言

満月です!昔、ロスで会社に泥棒が入ったのは満月の夜でした。 警備会社の人が「満月の夜は泥棒が多いので忙しい!」と言っていたのを覚えています。日本はどうなのでしょうか?地球から見る月もいいですが、宇宙から見る地球はきれいなのでしょうね。人工衛星から見た家やその周辺がGoogle Mapで見られるってご存知でしたか?http://www.google.com/maps?hl=en&tab=wl&q=
私たちが住んでいたサウスベイの家やトロントの家が結構な大きさで見ることができます。(R.O.)

詩 吟 の 効 用

私の詩吟歴も8年になりました。日本の伝統文化の一つと言える詩歌吟詠ですのでその奥が深く、何十年続けても奥義を究めることは不可能でしょうが、それでも8年も先生(師範)について習っていればいつまでも「新人です」とはいえないようです。

尤も、私がそもそも詩吟に興味を感じ、会に入門した動機は吟詠の達人になるためではなく“なんとなく興味を覚えた”程度ですので一向に上達しないのも当然です。

詩吟とは漢詩に節を付けて吟ずることを言いますが、さすがに日本古来の伝統芸術であり、その奥の深さに今更ながら感じ入っているところです。

南カリフォルニアにはいくつかの詩吟流派の会が存在しますが、私達の会もそのひとつです。私のような進歩が遅く、出来の悪い生徒も、週一回詩吟クラスに通い、師範の先生に迷惑をかけながらも和気藹々と楽しく研鑽に励んでいます。

「最近の日本人の皆さんは詩吟をどのように理解しているのだろうか?」 ――― こんな疑問から私のまわりにいる友人・知人を対象に調べてみました。

「エッ、シギン?何ですかソレ?」、「あゝ、ナニワ節みたいに唸ってる変なもの!」といった反応(回答)から「詩吟って、“ベンセイ、シュクシュク・・”のこと?」、「時代遅れの難しい節回し!」、「あんな大声は私には無理!」といったものまでまさに十人十色でした。

さすがにある程度の年齢に達している日本人は詩吟に対する理解度は高いようでしたが、若年層になるにしたがって詩吟はおろか漢詩さえ知らない人がいるのには少々驚きでした。
    
“古臭いもの”というイメージが定着している詩吟を若年層に普及する方法はないものだろうか? そこで先ず詩吟の効用を考えてみました。

(1) 心身の健康に資する:腹の底から声を出して詩を吟ずる呼吸法は内臓を強くし、身体内から活力を生み、その上ストレスの解消にも役立ち、心身最高の健康法のひとつである。――― 私達の流派の会では90歳以上の会員もおり、かくしゃくとして詩吟を吟じています。この事実こそ詩吟が心身にわたる健康法である何よりの証拠といえましょう。

(2) 歴史、文化の勉強が出来る:吟ずる漢詩は主に中国、日本の歴史や文化を題材とするものが殆どです。自然に歴史への興味がわき、文化を学ぶことが出来ます。

(3) 漢字の読み書きの機会が増える:コンピュータ時代の今日、私たちは自分で漢字を書くことが少なくなっています。私自身も最近は紙の上にペンで字を書くことは殆どなく、原稿もメールもパソコンのキーボードに頼っています。漢字を書くのは詩吟クラスだけと言っても過言ではないほどです。

私にとって詩吟とは、趣味であると同時に実益をも兼ねた最高の余暇利用法と言えましょう。

私達の詩吟の会では、全員による吟詠大会が春・秋に開催され、吟詠・吟舞の二部門について、半年間の成果を発表しています。

先日、恒例の2006年秋季大会がロングビーチ市の日系人会館で開催されました。私が選んだ吟題は「結婚を賀す(並びに和歌)」(松口月城作)でした。

婦(つま)となり夫となる これ宿縁
同心一体 天に乖(そむ)かず
  幾千代の ちぎりなるらん常磐(ときわ)なる
  松のこずえに 鶴の巣ごもり
人生の航路 あに容易ならんや
永久(とこしえ)に違(たが)うことなかれ 貞と賢と。

健康志向、教養志向の現代人にとって詩吟の効用はぴったりではないかと思います。皆さん詩吟の世界にもっと興味を持ちましょう。
      河合 将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り言「 遠回り 」

強風雨の去った昨日の東京は、まるでこの地の悪戯を懺悔して洗礼でも受けたかのように、清く澄み、そして静かだった。西に沈んだ太陽の明かりがまだ少し空に残る宵の頃、東の空には大きく真ん丸いお月様が浮かぶ。大雨で隠されてしまった中秋の名月は、その翌日、悠々たる姿を見せた。陽の光を満々と受けた月は、闇を益々清く照らしているよう。無限の宇宙に浮かぶ太陽と月と地球、そしてその地球に人が創った小さな街が存在しているこの光景が、美しくもあり、不思議でもあり、感動の宵だった。その時、ふと思った、「遠回りもいいかも」と。

今から50年ほど前、菅原都々子の歌う「月がとっても青いから」(作詞:清水みのる/作曲:陸奥明)が一世を風靡した。当時レコード100万枚を突破した記録は、現在の市場規模に換算すると3,000万枚になるという。まだ生まれていなかった私がこの曲を知ったのは、テレビのナツメロ番組だった。「月がとっても青いから、遠回りして帰ろう」で始まるこの歌、不思議な魅力があると思う。歌詞の語彙そのもののユニークさも、また1番、2番、そして3番の展開も屈託がない。作曲した陸奥明氏は、菅原都々子の実父だということもあってか、熟知された声質がこの唄の味を深めているようにも思える。そして、私が一番好きなのは、「遠回りして帰ろう」という言葉だ。

ところで、私が「月」を強く意識した生活は幼少の頃に遡る。政治家であったが、同時に網元であり、また釣りを趣味としていた父は、末っ子の私を船に乗せ、暇があれば釣りに連れて行った。昼間は鯵、鯛、鯖、おこぜ、鰹、しいら、くさび、いさき、カワハギ、鱸(すずき)などを釣った。夜は、烏賊(いか)を釣った。本来、漁は夜が中心。だが、満月が煌々と海を照らす夜は、漁船の明かりに魚が集まらず、休漁となる。しかし、烏賊釣りは違った。烏賊釣りはロウをこぎながら特別な竿と餌木(えぎ)を使う。父は、自分で丸太を削った木片を魚の形に削り、色やニスを塗り、針などをつけて作った。そして、それぞれの餌木を、月の大きさや位置、海面に反射する月光の違いによって、一本ずつ使い分けていた。烏賊が一匹もつれない冬の夜、今度こそはと、動く月にあわせて餌木を交換しながら諦めない父を、早く帰宅したい私は恨めしく思ったものだ。でも、満月の夜は、寒い夜も明るく暖かく感じ、父は決まって遠回りをして帰ったものだ。そんな夜、釣りをしながら父は、遠回りする人生もいいものだと話してくれた。

佃の島の夜は、オフィス街と変わらぬ高層マンションが真昼のような光を放ち、月や星が見えにくいように思われている。しかし、一歩隅田川沿いに行くと、川面に浮かぶ満月をめで、月の雫に濡れながら、散歩を楽しむことができる。最近自分は、会社への行き帰り、朝は金木犀のかほりを楽しむために、夜は秋の夜長を楽しむために駅から遠回りして帰るようにしている。遠回りの生き方をしてきた自分と秋のかほりを、月の光に照らし合わせながら、遠回りの帰路を楽しんでいる。遠回りの人生も散歩みたいなものだよ、っと呟く、さくらの独り言。

週間五日坊主(東京・成近)


( 川 柳 )

紙一重その差埋まらぬままに冬

必勝の方程式と言う虚構

脚光を浴び影武者が頓死する

逆光が捨てたい過去を浮き立たせ

負け戦 勝者の罪は裁かれず

( ニュースやぶにらみ )

「ディープインバクト無念」
3位のままでは終われないよね −谷垣禎一

「核兵器」
背を腹に変えても −北朝鮮

「景気“いざなぎ”に並ぶ」
うっそぉー −我が家のいざなみ

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

 連載 ウィドウ(12)

   冬枯れた茶褐色のユーコン原野は白い流水模様を描いたようだ。その中に一際幅広く白い帯が蛇行しながら視界の果てへと消えている雪のユーコン河。行く手は、二月の柔らかな朝陽を受けた白銀の峯が遥か彼方まで重なり合う、白の世界である。
 私たち五名のツアー客を乗せたセスナはチェナ温泉を飛び立ち、アラスカ北極圏へと向かっている。気流に乗った鳥のように微動だにしない。快晴だ。私は窓に額を当て眼下の風景をじっと見つめていた。やがて冬が去ったならこの原野は新緑に染まるだろう。すると、野生動物のカリブーやムースの群れが見られ、凍てついた湖は空の色を映して真っ青となるのだろう。原野の秋はどんな色合いに変わるのだろうか。
 アラスカの四季をみたいと思った。
 ブッシュ・パイロットのマットの声がマイクを通してヘッドフォンから聞こえてきた。「よく聞こえないわ。サリー」
 口元のマイクに言うと、マットの隣に座っている友人のサリーが通訳してくれた。
「ムースがいるわよ、見てごらん」
 雪原に黒い点のようなものが動いていた。
「北緯66度33分を通過。ここから向こうは北極圏だって」
 しばらくすると、セスナは大きく回り込みながら下降していった。眼下に家が見えた。ユーコン河の岸辺にある集落の家は数えられそうななほど少ない。社会と隔絶されたような地の果てに、なぜ人は暮らさなければならないのか。不思議に思った。セスナはニ、三度大きくバウンドをして、雪上に停まった。
 人口60人のビーバー村である。マイナス20度。数日前はマイナス40度以下だったというから、運がいい。レンタル防寒具を着ての歩行はもたつくが、寒くはない。
 ツアー・ガイドのクリフが一人、待ち受けていた。他に人影はない。静謐という言葉が浮かんだ。クリフの後を歩いていると、キュッキュッと雪の踏み音がした。乾燥したざらめ雪である。村の共同墓地までくるとクリフは足を止めた。
 深雪に墓標が覗いていた。
 墓銘は「Frank Yasuda 1868~1958」とあり、下のほうに「安田」と書かれていた。
 この僻地に日本人が……。
 どのような経路をたどってこの地に、なんのために、どのような人生を送った人だろう。
どこかで聞いたような名前ではある。はて、どこでと、記憶の扉を乱打していると、はっと思い当たった。
 新田次郎の『アラスカ物語』の主人公。
 亡夫は、よく、新田次郎がフランク・安田のことを本にするまでの取材苦労話をしていた。当時、何の興味もなかった私は聞き流していたが、この人のことだったのか。夫が引き合わせてくれたような気がした。
「あなたの話していた『フランク・安田』よ。ついに出会ったわ。ありがとう」
 墓標に向かって呟くと、胸の奥底から熱いものがこみ上げてきた。
 宮城県石巻に代々医者の家系に生まれた「安田恭輔」は十五歳のときに両親を亡くした。アメリカ船のキャビンボーイとなり、アラスカの北の果てバローで船を下りる。鯨の乱獲のため飢餓に襲われたエスキモー村の人々を率い、二年をかけて北極圏の原野を越えて超えビーバー村へとたどり着く。アラスカのモーゼと言われた男。故郷へ帰ることもなく、金鉱を発見して得た富のほとんどをビーバー村のために注いだ日本人である。
 沿岸部に暮らしていたエスキモーは、それから内陸部へ住むようになったのだと、ブッシュ・パイロットのマットは説明した。ビーバー村のような小さな村はアラスカの原野に百三十あまりも存在するという。
 オーロラ観測のためにきた私たちである。ロサンゼルスからシャトルで乗り継ぎ、真夜中にフェヤバンクスに到着し、チェナ温泉リゾートの車で明け方にチェック・インした。露天風呂の温泉に入ったり、犬ゾリに乗ったり、夜は雪上車で丘の上にオーロラを観に行った。煙突から煙を吐いているようなオーロラに少なからず幻滅しながらも、降るような星空に大満足した。雪の上に寝転がって、星のまたたきを一晩中眺めていたいと思った。
「あれがオリオン座よ」
 誰かがいった。流れ星が長い尾を引きながら落ちていった。
 スノーモービルに乗って丘を走った。最後尾の私は、人の後をついて走るのは面白くなかった。未踏の雪上を走ろうと、ハンドルを曲げた途端、雪の中へ突っ込みエンジンが止まった。ひとり取り残され、あわや雪山遭難かと思いきや、リーダーが引き返してきた。スノーモービルから降りると、腰までズボッと雪に埋まってしまった。なにもかも楽しい旅の思い出の一コマである。
 旅を終えて、夫が感動したであろう『アラスカ物語』の本を探していると、アラスカの自然を撮り続けるうち熊に襲われ命を落とした写真家「星野道夫」へとつながっていった。
 アラスカの大自然に魅せられていく自分に、私は驚いている。

               つづく

 

編集後記

週一回のヨガ教室に通い始めました。
参加者はほとんどが女性、しかも中年の方です。結構痛い部分があったので身体に歪があるのが体感できました。1時間半がちょっと長く感じたのできつかったのかもしれません。
【今週お薦めのジャズ】
Oscar Peterson ” A Tribute to My Friends “
ジャズ界の巨匠、オスカーピーターソン。魔法の指を持つといわれる彼のピアノはどの曲もすばらしいです。このCDは20年以上前にロスで買ったものです。
 


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Zakkaya Weekly No.543

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
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