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NO.540                Ryo Onishi              9/17/2006   

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河合さんの さくらの独り言 川柳 & コント 森田さんから ホームページ
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雑貨屋のひとり言

飲酒運転による事故のニュースが毎日報道されています。日本では交通手段があるので飲みに行っても何とかなりますが、ロスのように自動車しかない場合は困りますね。それにしてもこの話題ばっかりで、ほかにニュースはないのかと思ってしまいます。
日本は今月もうれしい三日連休ですが、台風13号の接近が気になります。九州は大きな被害を受けているので結構強い台風なんですね。(R.O.)

12年ぶりのオリンピック

 冬季オリンピックにフィギュア・スケート選手として、これまで三回出場した井上怜奈選手を講師に招いて私たちの月例セミナーを開催しました。

井上怜奈さんはこの三回の冬季オリンピックうち、日本代表として二回、アメリカ代表として一回出場という異色の経歴を持った人です。
  
彼女が最初にオリンピックに出場したのは1992年アルベールビル(フランス)で当時15歳(中学3年生)でした。伊藤みどり選手が日本人初のオリンピックでメダルを獲得した時で、井上怜奈選手はペアで14位でした。

二回目は1994年リレハンメル(ノールウエイ)冬季オリンピック(この時から冬季オリンピックは夏季オリンピックと2年ずらして開催されることになり、前回から2年後に開催)で怜奈さんはシングルの演技で17位、高校2年生でした。

この二回のオリンピックでは残念ながらメダルにまでは届きませんでしたが、この若さで二回連続出場を果たしたことは素晴らしいことであり、両親の理解と良き指導者や環境に恵まれたとは言え、彼女の努力と根性は賞賛に値するに充分と言えるのではないでしょうか。

二十歳代最後に近い現在でも身長150センチほどで、どこにでも居そうな“若いお嬢さん”といった風情の怜奈さんのどこにそんなバイタリティが潜んでいるのかと思うほどです。

そんな怜奈さんですがご自身の話によると、幼少時代は虚弱体質で小児喘息の気もあり、ご両親が我が子の成長を心配し、水泳とスケートのクラブへ入れてくれたのだそうです。

その後、家庭の経済的理由(本人の話)から親から水泳かスケートのどちらか一つにしなさいと言われ、幼い彼女はスケートを選んだのだそうです。この選択が後の井上怜奈選手を生むことになったわけです。

「多くのスケート選手はオリンピック選手になることを夢見てトレーニングをはじめるのが普通ですが、まだ中学生だった頃の私は夏のオリンピックは知っていましたが、オリンピックに冬季大会があるなど知りませんでした。何も知らずにリレハンメル大会に出場させてもらい、改めてオリンピックがいかにたいへんなものであるのかを知らされました」

この頃から怜奈さんは自分の立場をわきまえ、持ち前のねばり強さを発揮し始めたようです。

  ところが世の中は必ずしも良いことばかりではありません。二回目のオリンピック出場の後、最大の理解者であった父親が肺がんに倒れ、40歳代半ばという若さで他界してしまいます。

残された母子二人の苦悩は想像に難くありません。怜奈さんも一時はスケートどころではなく、完全に沈み込みます。

しかし、そこで終わってしまわないところが井上怜奈さんらしいところです。長野オリンピックでの日本代表を逸した彼女は2001年のシーズンから練習拠点をアメリカに移します。アメリカではジョン・ボルトウイン選手とペアを組んでトレーニングを開始します。

アメリカという異文化の地でカルチャーショックや度重なる怪我と闘い、活動費用を捻出するためアルバイトまで続け再び厳しいトレーニングを重ねた彼女でしたが、またもやたいへんな危機が訪れます。それは彼女自身が父親と同じ肺がんに罹っていることが判明したのです。

「医師から肺がんを宣告された時はあまりのショックで何も手につきませんでした。その上、母にはどうしても知らせることが出来ずほんとうに苦しみました。しかし、母に黙っているわけにもゆかず、電話をしました。母は電話のむこうで絶句していたのを今でも忘れられません。――― 運動選手にとって肺活量は重要であるため私は手術でなく放射線他の療法を選び、それから数ヶ月苦しい闘病を生活でした。早期発見の肺がんであったことが幸し、その後病巣は消え命拾いしました」――― この他にも彼女の困難に打ち勝つ信念と真摯な闘病が大きく効果があったのでしょう。

厳しく長い道程を経て彼女は遂に三回目の冬季オリンピックである今年(2006年)のイタリア・トリノ大会への切符をアメリカ代表として手にすることになります。前回出場したリレハンメル大会から実に12年ぶりのオリンピックでした。

そしてトリノ大会ではショートプログラム(ペア)でオリンピック史上初めてのスロートリプルアクセル(三回転半ジャンプ)を決め、オリンピック史上にその名を残す快挙を成し遂げたのです。このときの成績はペア7位でした。

日本人(米国永住権保持)であった彼女が日本国籍を捨てアメリカ市民権(国籍)を取得するにいたる話は感動的です。(後述)

「私はフギュア・スケートの選手であり、話すことには慣れていません。皆さんにお話するほどの内容のある話が出来るか心配です」と謙虚に語る井上怜奈さんでしたが、彼女の言葉は私たちを感動させるに充分な内容でした。

どのような分野であっても何かを極めた人の言葉には聞く人の心に響く何かがあることを実感しました。

今回のセミナーで彼女が語った約2時間の話の中から私なりに選んだ「井上怜奈語録」を以下に記してみます。――― 次号に続く ―――
      河合 将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り言「 りんごの皮 」

イギリスの思想家であり作家でもあるジェームズ・アレン(1864〜1912)は、その代表作『As A Man Thinketh』(人は、心の中で考えたとおりの人となる)で、「原因と結果の法則」を自分の体験に結びつけ、「人間は思いの主人であり、人格の制作者であり、環境と運命の設計者でもある」と説いている。先日、行きつけの日本料理店「たかし」のご主人、孝志さんが、「りんごの皮」、つまり“何故、今、自分が包丁を持つ仕事をしているのか”、その原因と結果を話してくれた。彼の話を聞きながら、人の生きる今は、何がしかの出来事における想いや決断が創っているものだと、実感し、冒頭の言葉を思い出したさくら。

この日本料理店「たかし」のご主人、孝志さんは、お姉さんと弟の3人キョウダイ。孝志さんが小学校4年生の時、お母さんが他界。風邪をこじらしての急死、父上が単身赴任中で不在時の出来事だったという。「姉は、風邪で寝込んでいる母を看ることから“看護婦”になりました。僕は、病床の母が食べたいと言ったりんごの皮を包丁で剥けなく、食べさせてあげられなかった。それがとても悔しくて、包丁を上手く使えるようになりたいと切望した。それが今の自分を創った。そして弟は、健全だった母がいつも手にしていた愛用の絵の具とパレットを手に取り、美術の道へ進んだのです」。母上の死がなかったら、この3人のこどもの人生も違った創りになっていたかもしれない。

ところで、冒頭で紹介した現代哲学の祖といわれるジェームズ・アレンは、ヒル、カーネギー、ナイチンゲールらに多大な影響を与えたことでも有名だ。では、彼はいったいどんな人だったのか。1864年イングランドに生まれた直後、事業に失敗した父は建て直しのために単身で渡米、家族を米国へ呼ぼうとした矢先、強盗に襲われて殺されたため、当時15歳のジェームズは学校を中退、製造業で働いた。この頃彼は、工業家のための経営コンサルタントとして生計を立て始めていたとも言われる。このジェームズの執筆活動期間は1902年後ごろから亡くなるまでの約9年間のみ、19冊を出版した。トルストイのプロテスタントの自由主義を求めつつ、同時に仏教思想、仏陀の『今の自分がどのようなものであるかということは、わたしたち自身が考えてきたことの結果である』などの影響も受けている。だから彼は「個々の人には自分自身の性格を創る力があり、そして自分自身の幸福を作り出す力があるのだ」と主張する。彼の言葉を引用すると、「思考と性格は一つのものです。そして、性格は環境や周囲の状況を通してのみ明らかになります。ですから、ある人の人生の状態は、常にその人の心の中の状態と一致していることがわかるでしょう。これは、ある人の置かれた状況がいつでもその人の性格のすべてを反映しているという意味ではありません。そうではなく、この状況というのはその人自身の心の中でも大きな部分を占める思考と非常に密接な関係があるので、当面のあいだ、その人の進歩にとって不可欠なものである、ということです」と。何とも心理をついた言葉とはいえまいか。

日本料理店「たかし」の孝志さんが話してくれた「りんごの皮」の話は、哲学者アレンの説きに通じる重要な真理を教えてくれた。今私たちがある(居る)状況は私たちが過去に考えた体験や思考によってもたらされたものであり、私たち自身の今や未来は、私たち自身の思いによって創りだせるものであると思う。食欲の秋、スポーツの秋、そして読書の秋、こうしてアレンのような賢人の祖が説いた人生の証に触れながら、思いを巡らすのもいいだろう。そして、皮をむかないりんごをほおばりながら、その甘酸っぱさに、少年の思に浸るのもいいだろう。実りの秋、人生の実りも自分の思いが決めるのだぞ、っと呟く、さくらの独り言。

週間五日坊主(東京・成近)


( 川 柳 )

情に棹さして本流から外れ

オウンゴールからの流れを変えられず

I Tと共謀悪知恵が踊る

反響に虚像が一人歩きする

天網にさえもほつれを見る世相

( ニュースやぶにらみ )

「後藤田氏抗議の辞任」
次の選挙には刺客を立てよう −貸し金業界

「独走と無投票再選」
9月場所が全然盛り上がらない −永田町

「村上被告、インサイダー否認へ」
頑張れよ −堀江被告

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

 連載 ウィドウ(9)
          
「ただいま」
 と、言うのも私だが、
「お帰り」
 と、返事をするのも私である。だが、お帰りは亡夫の声のような気がしてならない。
 郵便受けから配達物をとる。私は再び虚空に向かって独り言をいった。
「あら、小学校と高校の同窓会が三週間違いであるわ」
「行け行け。元気なうちだよ」
 亡夫がいう。
「そうね。お母さんは九十七歳だし、見舞いかたがた、純子も連れて行こうかしら?」
 またしても亡夫が答える。
「そうしろ。ラッキョウ君がメリーランド州の科学研究所へ赴任したら娘と二人で訪日旅行なんかできんぞ。いいチャンスだ」
 ラッキョウ君とは、ラッキョウの顔型をした娘婿に私がつけたあだ名である。二人は大学時代に知り合い、大学院生の時にサンフランシスコで同棲を始めた。結婚するつもりなら父親が生きているうちにという私の願いを受けて、夫が亡くなる一ヶ月前に結婚をした。
「ありがとう。よろしく頼む」
 食道癌のため気管切開をしていた夫は、娘夫婦の手を握り、吐く息で思いを伝えた。
 あれから二年半が過ぎた。
 私には一人で生きる覚悟も、何事も自分で決める快適さも身についてきた。

 九月末、私と娘は、岐阜の老人養護施設に入居している母を見舞ってから、私の生まれ育った広島へ向かった。高齢の母を岐阜に引き取ってから実家は空家である。落ち着く先は妹宅だ。翌朝、登山好きの義弟が階下で娘に話をしていた。
「純ちゃん、裏山に登ろう。市内が一望できるんだよ。四十分くらいだから」
 それを聞きつけた私は、一緒に行くことにした。九合目辺りまでは楽に登ったが、頂上までは岩だらけの険しい道になった。下り始めると、右足首に痛みが走る。膝が笑う。無事に下山しなければ……。今夜は待ちに待った小学校の同窓会だ。急な坂を少し下れば平坦な道に出る。あと数歩、と思ったときに足が滑った。石の上に尻餅をついた。
「しまった!」
 一瞬、声を失った。私は、何事もなかったように立ち上がろうとしたが、痛くて起きあがれない。弱音は吐けない。少し休んで何喰わぬ顔で歩き始めたが、足が震えた。
 妹が服用している痛み止めを飲み、同窓会へ行くと、初恋の進ちゃんがきていた。
「○○電力株式会社 取締役副社長」
 貰った名刺に書いてある。ほとんどが農家の子供だったが、進ちゃんの家は町の電気屋さんだった。よくできた。控えめで、長身で色白の良いうち坊ちゃんみたいだった。
「副社長って、どんな仕事をするの?」
「何にもせんことよ。しちゃいけんのよ」
 貴公子のような、気品さえ漂わせている進ちゃんが広島弁で答えた。
 私たちは三週間のJRパスを持っていた。翌日から、娘に荷物を持たせ友人巡りの旅にでた。駅の階段が辛い。娘が『マダム・バタフライ』の舞台を見たいというので、長崎へ。
 それから、退職後は果樹園を持つのが夢だった岡山の兄を訪ね、栗山に誘われた。娘が顔や手などをヤブ蚊に十何所も刺され、真っ赤になり脹れあがった。やれやれである。
 兄宅から箱根へ向かう新幹線でのことだ。継続的に下腹部に激痛が走る。我慢できず、私はトイレに駆け込んだ。
「血便!」
 亡夫が八年前に患った大腸癌に私もなったのかと、ドキッとした。心配性の娘には黙っていた。箱根の温泉で出された珍しい猪肉を食べたいが遠慮した。
「皇族方が行かれる、お鮨屋さんよ」
 葉山の友人がわざわざ案内してくれたが、血便の二文字が頭にちらつき、店構えを見ただけで引き返した。東京方面の友だちを訪ね歩いたあと、四十年来の友人がいる千葉へ。玄関先で五センチの段差に腰をひねった。治りかけた腰痛が振り出しに戻ってしまった。
「オレが死んでも、付き合ってくれ」
 夫の遺言だから、何が何でも行かなければと、姫路の義叔母の家に向かった。
 私はガムを噛みながら、姫路駅に着くまで車中で文庫本を読んでいた。叔母の家に着いた頃から奥歯が痛み始め、一晩中、歯茎が疼いた。翌日は姉妹と白浜温泉へ。歯痛で観光どころではない。私はホテルで一人、頬に氷袋を当て寝ていた。夕方に目が覚めた。鏡を見ると、右頬が腫れて口が曲がっていた。
「どうしょう、この顔。二日後には高校の同窓会があるのに」
 頬の腫れを笑いでごまかし、四十五年振りに高校時代の旧友に会ったのである。

 ロサンゼルスに戻ってきた。我が家の玄関ドアを開け「ただいま」と言うと、
「お帰り、大変な訪日だったね」
 亡夫の声が聞こえたような気がした。
               つづく

 

編集後記

シンクロナイズドスイミング、日本チームは見事な活躍でしたね。
今週お薦めのジャズ
Modern Jazz Quartet ” Concorde “ビブラフォーンの軽快でさわやかな響きが特徴です。

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Zakkaya Weekly No.540

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com