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NO.530                Ryo Onishi              7/9/2006   

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河合さんの さくらの独り言 川柳 & コント 森田さんから ホームページ
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雑貨屋のひとり言

PCはすっかり生活に浸透して、PCのない生活はもう考えられません。無人島に行くときでもPCを持っていくのではないかと思います。しかし、PCは画面をじっと見るので、ドライアイ、視力低下、肩こりなどに注意したほうがいいですね。といいながら、リラックスするために聴くジャズを携帯オーディオに入れるためにPCで処理しています。(R.O.)

国家の品格(その後)

当欄525〜527号に掲載された私の駄文『国家の品格(1〜3)』に対し、いくつものコメントをいただきました。ありがとうございました。

今の日本と私たち日本人の問題点、あるべき形・文化について論じているこの本の内容は異文化(海外)の地で暮らす私にとって関心事であると同様、日本にいる日本人の皆さんにとっても大きな関心事であることが良くわかります。

 ただし、私が受信したコメントの中には、当然のことながら必ずしもこの本の著者の論旨に賛意を示すものばかりではありませんでした。

日本人が昔から当然のこととして親から子、子から孫へ伝承されてきたものが戦後になってどこかに置き忘れられてしまった ――― それを取り戻すことで日本人として、よりまっとうな人間になる必要がある ――― と言うような点については、寄せられたご意見はほぼ一致していましたが、基本的な論点の立場を異なるコメントもあり、これらのコメントを拝読することにより、さらに一層私も教えられ学ぶ機会を得、ありがたく思っているところです。

私が受信したコメントにもありましたが、確かに著者の論旨はその端々から日本人選民思想的ナショナリズムの匂いを感じるところもあります。

この点に“一抹の不安を感じる”といわれるとそうかも知れません。目下、日本を取り巻く国際社会は複雑であり、必ずしもすべてが良好であるわけではありません。武士道をたたえ、日本の目指す道は「普通の国」ではなく他のどことも違う「異常な国」なのだ、との著者、藤原氏の主張は読み方によっては誤解を招きそうです。

また、国家があって国民がいるのか、個々の個人が集まって国家を作っているのか、即ち、「国家が先か、国民が先か」の問題もこの際考えなければならない問題でしょう。

『国家の品格』といったテーマを扱った文章は読み方によって大きく変わるものだということでも今回、私はいろいろ学ぶことが出来たような気がしているところです。          河合 将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り言「 扇子 」

「さくらさん、祖母の手作りです、貰ってください。私の祖母は扇子職人なのです」といって差し出された一本の扇子。開いてみると、淡いブルーの和紙にさくらの花びら模様が広がる。薄い和紙の中骨、細いが柔らか味を感じる。扇いでみると、清楚なかほりの風が心地よい。閉じると、私の手の平に優しく納まり愛らしい。これぞ、手作り扇子の醍醐味だと頷き、ニンマリ。初めての自分の扇子、私の傍でどんな風を作ってくれるやら。

扇は飾るか舞うか、扇子は夏のオジサンか、うちわは祭りか寿司ご飯の冷ましか、という認識と偏見が固定していた私。日本を離れた在米時、夏冬か春の顔を持つ京扇を年中壁に飾り、遠き日本の四季を偲んで私の心が舞った。私は舞踊に縁がないが、扇が舞踊や能・狂言、落語といった古典芸能には切り離せないことは知っている。また一般に扇子は扇と同じだが、私の中では違うイメージ、扇子は夏のもの、しかも中年以上の男女が使う。だから扇子を取り出して扇ぐと“もう、オジサン”。そしてうちわは、いうまでもなく夏祭りにかかせないひとつだが、これがまた年中重宝されるひとつでもある。寝入った赤子に涼風を送り爽やかな夢を誘う夏、七輪で秋刀魚を焼く秋、炊き立てのご飯に酢を混ぜる折々、うちわはここぞとばかり株を上げる。そんな固まったイメージからの脱皮がこの夏、手作り扇子を頂いてから。蝉が脱皮をする前に、扇や扇子について学習してみた。


扇子とうちわでは、うちわの成立の方がはるかに早く、紀元前の中国で用いられたという記録があるそうだ。また、古代エジプトの壁画にも、王の脇に巨大な羽根うちわを掲げた従者が侍(はべ)っている図も残されている。このように、うちわは文明発祥時から存在する古(いにしえ)の道具であり、日本へは、7世紀頃に伝来した。うちわを折りたたんで携帯に便利な扇子にするというアイデアは、ずっと時代が下り、8世紀頃、何と日本で発明されたという。平安時代の頃から、扇子(扇)は、あおぐという役割だけでなく、儀礼や贈答、コミュニケーションの道具としても用いられた。具体的には、和歌を書いて贈ったり、花を乗せて贈ったりしたことが、源氏物語など多くの文学作品や歴史書に記されている。日本で発明された扇子は、コンパクトに折りたためるという利点が高く評価され、大航海時代には中国を経由して西洋にまで輸出されて、それぞれの国で独自の発展を遂げた。17世紀のパリでは、扇子を扱う店が150軒を数え、上流階級のパリジェンヌには欠かせないコミュニケーションの道具として大流行したと伝えられている。


さて、自分の扇子というものを持つのも、使うのも、初めての夏。真新しい私の扇子、開くも閉じるも、私の動作はまだまだぎこちない。でも、友人の祖母の手作の扇子を自分が持っていること、その扇子を使う愉しみを知っていること、それがなんだか、誇らしかったり、心地よかったりする。扇子を使うことが不釣合いではない歳になったということかもしれないが。浴衣が若者や女性の間で大流行の昨今、そのうち彼らが扇子のしゃれた使い方の風を吹かしてくれればと思う。その扇子流行の到来を待たずに、一足お先に私は今年、じっくりと扇子の趣きを味わうつもり。いただいた手作りの扇子と共に、私なりのセンスのある夏の暮らしを愉しもう、っと呟くさくらの独り言。

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

産声を写して祖父母へのメール

顔の無い客がネットにどっと来る

未来広がるナノテクの穴の先

原発に安全という崩し文字

クローンが抱いてる神の玉手箱

( ニュースやぶにらみ )

「清原選手80万票」
よだれが出た −参議院比例区

「王監督 胃に腫瘍」
私も胃が痛い −原監督

「ミサイル7発」
煮ても焼いても食えない −日本海の魚

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

イスラエル紀行( 11 ) 再びエルサレム
              森田のりえ
 二〇〇二年二月四日の朝、私たち聖地旅行団はヘブライ大学のあるスコーブス山から、薄いベージュ色の建物が丘全体にひしめき建つエルサレムの街を見下ろしていた。
 手前に見えるオリーブ山からケデロンの谷まで墓地が拡がっている。オリーブ山とは名ばかりで、木立は少ない。谷の道をたまに車が行き交う。道の向こう側の斜面は白い歯をばらまいたように見える。墓である。それも裕福なユダヤ人の墓が多いという。
 城壁の中が俯瞰できる。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教にとっての聖地「神殿の丘」である。木立の間から見える青色の建物はイスラム教の「岩のドーム」で、屋根は黄金色のドームだ。朝の陽光を受けたドームは輝き「黄金のエルサレム」の名にふさわしい。
 二年前にインティファーダー(抵抗運動)が始まって以降、神殿の丘に入場できなくなった。残念だが、仕方がない。
 神殿の丘を右手に見下ろしながら、バスは走る。ガイドが説明をはじめた。
「みなさん、現在見える神殿の東側城壁の高さは十メートル少々あります。実際の壁はさらに下へ二、三十メートルもぐっています。イエスさまの時代、いかに谷が深かったかが分かります」
 オリーブ山に対峙し、人々を威嚇するように城壁がそそり立っていたのだろう。神の怒りを怖れた昔の人の気持ちを想像してみた。
 樹木のかたまりが見えた所でバスから降りた。樹木はオリーブの古木だった。
「ここは、ゲッセマネという油を搾る場所です。イエスさまは最後の晩餐をすまされ……」
 ガイドの話を聞きながら、私は、土産店にあった「最後の晩餐」の木彫りを思い出した。コの字型の低いテーブルで、席順も左からヨハネ、イエス、ユダとつつぎ、最後の右端にペテロがいる。弟子たちは寝そべり肘を付き行儀が悪い。だが、当時の正式な食事のようすだという。レオナルド・ダ・ヴィンチの壁画「最後の晩餐」とは、似ても似つかぬものである。こんな発見も、愉しい。
「イエスさまは弟子たちと十五分くらい歩いてここに来られました。そして岩の上で最後の祈りをされたのです。『父よ、この杯をわたしから取りさって下さい』と。聖書には『汗が血のしずくのように地に落ちた』とありますから、壮絶な祈りだったのです。私たちのために祈って下さったのです。イエスさまは何度もここで祈られていますから、あなたの立っている場所かもしれませんよ」
 ガイドの言葉に力がこもった。
「さぁ、イエスさまが最後の祈りをされた場所に建つ『万国民の教会』に入りましょう」
 教会の中に八畳くらいの平らな岩があった。
 岩に手を置きみんなが黙とうをしていると、賛美歌が聞こえてきた。天球を思わせるドームは、歌声を吸いこんでは響き、厳かな祈りの場の雰囲気をかもし出していた。
 教会を出ると、道を隔てた向こうに神殿の城壁が薄茶色の帯のように横たわっていた。真正面に石造りの黄金門がある。この門はパレスチナがイギリス統治になる前に、石とコンクリートで固めてしまったそうだ。
 ユダヤ教では、終末の日が訪れるとメシヤがオリーブ山に立ち、黄金門が開かれる。すると死者が復活するといわれているから、この辺りにユダヤ人の墓が多いわけだ。
『ルカによる福音書』によれば、イエスは、ユダの裏切りでゲッセマネで逮捕され大祭司カヤパ邸に連れていかれ、裁きをうける。カヤパ邸跡は、現在「鶏鳴教会」になっている。 
 私たちはバスに乗り、鶏鳴教会へ向かった。
 神殿の南壁が見える。
「ダビデの時代は」と、ガイドがいった。
 三千年前のイスラエル王のことである。
「城壁は南北に細長く伸びた町で、今立っている場所も城壁の中でした。現在の南壁は、当時は神殿のプラットホームでした。それをスレイマン大帝が壁を造り区切ったのです」
 イスラム教徒は、神殿の丘の南側にモスクを建てようとしている。考古学者は城壁が崩れ人類の文化遺産が失われると反対している
が、折り合いがつかないそうだ。
 鶏鳴教会には、イエスを追って弟子のペトロがカヤパ邸にもぐりこみ、たき火に当たった場所、イエスが最後の夜を過ごした地下の小さな牢獄などがあり臨場感に誘われた。
 牢獄で一夜を明かしたイエスは、翌日、最高法院で裁きを受け、ローマ人の総督ピラドのもとへ連行されるが「この男に罪はない」と帰される。次はヘロデ王に尋問され、派手な衣を着せられてピラドのもとへ再び送られる。そして、十字架の道へと進んでいく。
 私はクリスチャンではないが、イエスの足跡を自分の足で歩いてみたいと思った。しかし、今の情勢では自由行動は許されない。
 逮捕されたイエスがのぼったといわれる石段があった。当時のままかどうか知らないが長い年月の間にすり減って丸くなっている。段の高さが三十センチもあるので登りにくい。
 一人の牧師が、右手に靴をぶら下げ、裸足になって石段をゆっくりと登っていた。イエスの愛と苦悩を体感しようとするためだろうか。私の心に残った。
                 つづく

 

編集後記

今日は暑い一日でした。暑い時刻はクーラーの効いたショッピングセンターは家族連れでにぎわいます。ということは私たちも同じようにそうしているということですね。雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

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Zakkaya Weekly No.530

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
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