私は5月15日から日本行きのため、ロサンゼルスを留守しましたが、約四週間ぶりに戻ってきました。日本滞在中、多くの友人たちと再会し、またメール仲間とのオフミーティングに参加させていただき有意義な時を過ごしました。行く先々で「雑貨屋ウイークリー」の内容が話題の中心になることも多く、「雑貨屋ウイークリー」が多くの皆さんに読んでいただいていることに改めて感動しました。前回までの私の駄文「国家の品格(1)、(2)」についても直接のコメントも多く、ありがたく拝聴いたしました。
また、私は今回の日本滞在中、諏訪、軽井沢、北海道、東京、神奈川などをまわり、新緑と
花など自然も満喫してきました。
――― 前号よりの続き ―――
この本(藤原正彦著、「国家の品格」)の第四章以降で著者は論理の重要性を充分認めながらも、情緒(懐かしさとか、もののあわれといった、教育によって培われるもの)や形(武士道精神からくる行動基準)の大切さを述べ、なぜそれらが大切かを説いています。
日本人が持つ自然に対する繊細な感受性、日常の行為を茶道・華道・香道などにまで昇華させうる能力はたしかに素晴らしいことです。
「閑(しずか)さや 岩にしみいる
蝉の声」(松尾芭蕉:奥の細道)――― 私たち日本人は、わずか十七文字のこの句の奥に広がる無限の宇宙を感じることが出来る民族なのです。
この句をみて“蝉が鳴いているのになぜ閑(しず)かなの?”“堅い岩にどうして染み込むの?”“蝉は何匹?”“だからそれが何なの”など、論理的に詰めていくと疑問と矛盾だらけです。
でも殆どの日本人はこの句を何の疑問や矛盾も感じることなくすんなりと受け入れるのが普通ではないでしょうか。いわゆる日本的発想とは、欧米的な理詰めで分析・細分化していくのではなく、むしろその逆で見えない又は表に現れていないものも含めて、全体を心とか感性で捉えようとする発想といえると思います。
多くを語らなくとも理解し、察しあえるという素晴らしい日本古来の美点は大切にしたいものです。尤も、一旦
海外に出ると、今度はそれが大変な誤解の根源になり、「あの日本人は何を考えているのだ」と言われたり、ひどい時は「完全無視」され泣きたい思いの経験をすることもありますが・・。
この本の第五章(「武士道精神」の復活を)の中で著者はこんなエピソードを記しています。***************************
私にとって幸運だったのは、ことあるごとにこの「武士道精神」をたたき込んでくれた父がいたことでした。父からはいつも、「弱い者いじめの現場を見たら、自分の身を挺してでも、弱い者を助けろ」と言われていました。父は「弱い者がいじめられているのを見て見ぬふりをするのは卑怯だ」と言うのです。私にとって「卑怯だ」と言われることは「お前は生きている価値がない」というのと同じです。・・(略)・・私は「卑怯を憎む心」をきちんと育てないといけないと思っています。法律のどこを見たって「卑怯なことはいけない」なんて書いてありません。・・(略)・・人間が利害得失にこだわるということは、もう仕方のないことです。人間には生存本能というものがあって、利害得失で動くよう遺伝子レベルで組み込まれているのですから。しかし、残りの1%を何で埋めるか、これが非常に重要なのです。
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先日、インサイダー容疑で逮捕された村上氏が逮捕前日に行った記者会見で記者から「法令違反さえしなければ金儲けをしても良いと思うか?」との質問に対し、「金儲けとはそんなに悪いことなのでしょか?法律が認める範囲内でお金儲けをして何が悪いのでしょうか?」答えていました。
この質疑だけに限って言えば、いかにも日本的な質問だったと言えるのではないでしょうか。ルールが優先するアメリカではこんな質問自体がナンセンスといえましょう。でも日本の文化の下ではルール以前の問題として「情緒」、「武士道精神」的発想があることをこの質問が如実に語っているような気がしました。 河合 将介(skawai@earthlink.net)
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