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NO.521                Ryo Onishi              5/7/2006   

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雑貨屋のひとり言

大型連休も今日で終わりです。いつものことながらあっと言う間に過ぎてしまいました。連休最後の日は全国的に雨になってしまいましたが読者のみなさんはこの連休をどのように過ごされたでしょうか?
愛用のノートPCのハードディスクを交換しました。5年以上特に問題なく使えていましたが、ひとつ不安がありました。それは不安を抱かせるハードディスクの異常音でした。交換はとても簡単で。交換後は見違えるように静かになりました。一ヶ月前にバッテリーも交換したので当分の間、新しいノートPCを購入する必要はなさそうです。(R.O.)

時に范螽無きにしも非ず

 ☆ 児島高徳 (榛葉 竹庭作)

 独り 鸞輿を遂いて 火坑に入る
秉忠憂国 烈夫の情
胸懐 一に託す 荒庭の樹
十字 万世の名を留むるに堪えたり
天 勾践を空しゅうする莫れ
  時に 范螽 無きにしも非ず

太平記で有名な南朝方の忠臣・児島高徳は元弘の乱の際、北条方に敗れた後醍醐天皇が隠岐に流される時、天皇の奪還を試みるものゝ成功せず、庭木の幹を削って『天莫空勾践 時非無范螽』(天勾践〈こうせん〉を空〈むな〉しゅうする無かれ、時に范螽〈はんれい〉無きにしも非ず)と書きつけて立ち去ったという話はよく知られています。

因みに勾践は中国古代春秋時代の越の国王で、ライバルの呉王闔閭を破ったものゝその息子の夫差に敗れてしまった。――― 雌伏する勾践に仕え、後に夫差(呉王)を討って「会稽の恥」をすすがせた忠臣が范螽というわけです。児島高徳は自分を范螽になぞらえて、自分の気持ちを後醍醐天皇に伝えようとしたと言う逸話です。

後醍醐天皇は良い忠臣を持っていたものです。児島高徳は仕える天皇の不遇に際しても変心することなく忠誠心を貫きました。
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ほぼ1年前のことです。私は引退者仲間(日本人)で作る「シニアネット・クラブ」の数人と近くのカラオケ・ボックスへ行きました。このメンバーは既にビジネスの第一線から引退し、思い思いに第二の人生を過ごす仲間達ですので、時々ウイークデイの昼間からこのような時間を過ごす幸せを享受しています。

カラオケ・ボックスではF氏がまず歌う曲を機械に登録しました。彼が選んだ曲は古い小学唱歌から「児島高徳」という歌でした。

♪ 船坂山や杉坂と 御あと慕いて 院の庄
  微衷をいかで 聞えんと 桜の幹に 十字の詩
  「天勾践を空しゅうする莫れ 時范螽無きにしも非ず」♪

いまどきのカラオケ・ボックスは通信カラオケになっているためか、こんな歌まで歌えるのには驚きでした。朗々と(ということに一応しておきましょう)歌い終わって感動に浸っているF氏に対し、思わず「古いですねえ!」と言ってしまった私でしたが、幸いF氏は気を悪くする様子もなく「いや、この歌には深い想いがあるのですよ」と一言だけ、そして歌は次の人へと続いていました。

後日のある日、私がたまたまF氏の自宅へ招かれ食事をご馳走になった時のことです。食後リビングルームでの雑談中、彼は棚の上の置物を手にし、私に見せながら言いました。

「この間、私がカラオケで歌った『児島高徳』ねえ、あの歌には私の想いがあると言ったでしょう?実はこれなんですよ」

見せられたのは高さ15センチ、直径5センチほどの丸い木の株でした。手にとって良くみると表面に文字が刻んでありました。その文字とは『天莫空勾践 時非無范螽』の十文字でした。

彼はビジネス現役時代、日本の郷里近くの企業に勤めていたそうです。この企業は典型的な同族企業であり、その上経営者一族間の醜い派閥争いが絶えず、彼は営業課長時代に図らずもこの争いに巻き込まれ、さらに辺鄙な地方に飛ばされたことがあったそうです。

送別会の席上、部下だった営業の全員(といってもたった6名でしたが)が記念品として贈ってくれたのがこの置物(木の株)だったのだそうです。

古風なF氏と木の株の置物、そしてそこに刻まれた十文字(天莫空勾践 時非無范螽)、いかにも彼らしいエピソードだと思わず私も感動しました。因みに彼はその後一年ほどで実績を買われ本社に戻ったそうです。

そのF氏が先月突然病に倒れ亡くなりました。葬儀は身内だけの密葬だったそうで私たち仲間内にも連絡がありませんでした。

数日前ご家族が落ち着いた頃を見計らってF氏宅を訪れ仏前にお参りさせていただきました。彼の真新しい位牌が安置された仏壇の脇に十文字の置物が置かれていたのが印象的でした。

【注】歴史によると呉越の戦いで越王勾践のため尽くした范蠡もその後、越を離れてしまいました。越を離れるとき彼は勾践を批判して「飛鳥尽きて良弓蔵され、狡兎死して走狗烹らる」(飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓は仕舞われ、うさぎが死ぬと、猟犬も不要になり煮て食われる。敵国が滅びたあとは、軍事に尽くした功臣も不要とされて殺されることのたとえ)と言ったそうです。私はこの逸話についての見解をF氏に聞くのを忘れてしまい今でも残念です。                     河合 将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り言「 5月5日の“おひなさま”」

大都会東京の街中でも、『おもしろそうに泳いでいる』こいのぼりを楽しめるこの季節、5月5日は“こども(男の子)の節句”だった。その日我が家では、女性ばかり7人が集ってドンチャン騒ぎ、遅ればせながらの“ひな祭り(桃の節句)”パーティ、『♪〜5月5日のせいくらべ〜♪』をもじってその名も“5月5日のおひなさま”。パーティカラーは“ピンクとブルー”、合言葉は“おひなさま”、持参物は“それぞれが飲みたい量の飲みたい物”。女性3人が揃っても姦しいのに、7人ともなるとそれはタイヘン、女性のパワーと愛らしさが融合し、笑いの竜巻状態となる。ここに、“女性7人春物語”の素敵な一日がスタートした。

そもそもこの集いは、私の部下の一人で国際結婚をしているKさんが、ご主人の母国ニュージーランドへ行くこととなったため、その送別会と題したものだった。日頃、職場で親しいこの7人が、今までのKさんの働きへの感謝と新しい門出を祈り祝す“送(贈)る会”というもの。集ったこの7人、32歳から46歳、Kさんを除くほかの6人は皆独り者。まるで雛壇に並ぶ7人官女のごときこの仲間、よってこのパーティは“5月5日のおひなさま”と命名された。合言葉の“おひなさま”は、我が家のインターフォンを押すと「合言葉は?」と私が聞く、来客者は「おひなさま」と応える、するとドアが開くというもの。パーティカラーのピンクとブルーは、3月3日の桃と5月5日の端午(菖蒲)の節句からとったもので、7人はこのカラーを何かひとつ身に着け(持っ)て、話題のひとつとして紹介する。無論、会場となる我が家に飾る生け花もその色。Kさんの上司であり、このパーティの企画者兼ホスト役である私の役目は、場所と手料理(タコサラダ、大根サラダ、グリーンサラダ、しし唐変わり焼き、生ハムりんチーズ、ミートボール、風変わりちくわ、ポチチキチン、一口ビーフ、チキンキャセロール、雛まぜ寿司、おでん、お味噌汁)を提供してのおもてなし。5月5日午後3時に佃の我が家へ集った女性7人は、まず隅田川・中央大橋近辺を散歩、清い空気を吸ってはおなかに空間を作り、その後我が家で食べたり飲んだり。各人、自分が持参したテーマカラーグッズや飲み物などを皮切りに、職場を離れたそれぞれの世界、人生観、恋愛(男性・女性)観、趣味嗜好について話を展開し、雰囲気はピンクやブルーで盛り上がる。姦しい中にも潤いがあり、“おひなさま”の集いにふさわしい。ウサギ小屋のような我が家の中で、7つのこいのぼりが気持ちよさそうに泳いでいるような一日だった。

ところで、父の仕事関係や家系の特質上、家を開放した集いや宴会の多かった大家庭で育った私にとって、“人の集う家庭”は理想だ。ひとつの家庭に、血の繋がった兄弟姉妹やイトコにハトコ、血の繋がりはなくとも何かの縁で出会った職場の同僚・部下やご近所さんといった友人知人が、喜びで快晴の時も悲しみで大雨の時も、集ったり駆け込んだりできるところ。大家族ではなく核家族時代に育った人には理解できないだろうが、私の理想とする『家庭』という響きの中には、そんな中で誰かのために仕え尽くす『嫁・母』の姿が美しく存在している。それは言い換えれば、私の女性観や人生観の根底にあるものかもしれない。桃や端午の節句を初めとする季節折々の日本的行事の中に、歴史的背景があることは言うまでもないが、『家族』という生活の中に多くの人々が関わり集い、そこになんらかの形で生じた願いや祈りが形となっているものだと私は思う。5月5日、我が家で7人が集まったように、男の子を授かった家庭に家族や友人知人が集い、それぞれを歓び、明日を祈ったことだろう。

さて、“5月5日のおひなさま”パーティのフィナーレは、さくらプラネタリウム(雑貨屋519号の『さくらの独り言』で紹介したホームスター)。女性7人が床やソファーに寝転がり、天井一面に動く満点の春の星を喜太郎のシルクロードを聴きながら見つめる。時に流れ星なんてものが出てくると、一斉に歓声をあげ、「願いごと、願いごと」と口走る。その姿はまるで節句を喜ぶこどものよう。Kさんが眺めるであろう南半球の星空画面も登場、そこに流れ星がひとつ、これからその下で生活を始めるKさんへの祈りが7人の「願いごと」だったことは言うまでもない。ニュージーランドへ行ってしまうKさんを送る会だったが、送る人も送られる人も、何かを“贈られる”会のようで、心が豊かになった。『♪〜灯りをつけましょ雪洞(ぼんぼり)に、お花を生けましょ桃の花〜♪』、まさに、心にあかりを、人生にお花を感じた5月5日のおひなさま・・・っと呟く、さくらの独り言。

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

マネキンの値札に亭主歩を速め

結局は妻の選んだものを買い

とじ蓋の丈夫取り柄がありがたい

精一杯妻のリモコン機で踊る

若い気の妻それなりに祖母の顔

( ニュースやぶにらみ )

「対村上ファンド戦」
7対9逆転の危機 −阪神

「108億円で落札」
ピカソの絵が゛ますます解らなくなった −凡人

「小中学校内でのコーラ販売停止」
コーラも自由に飲めないアメリカ −反米キャンペーン

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

 赦す、されど、忘れず(2)
                                                                   森田のりえ
 赤ちゃんが泣いている。飛行機が高度を下げ始めると、私の耳は幕を張ったようになった。赤ちゃんの耳も同じなのだろうか。泣き声に気をとられていると、ガクンと一つ衝撃がきた。ロンドン・ヒースロー空港着陸だ。
 LA空港から十時間の飛行である。私たち三十人の聖地旅行団体は、日本から参加する六人と合流し、七時間後にイスラエルへ向けて飛ぶ。一月末のロンドンの空は、単調な薄ネズミ色で見るからに寒々としていた。七時間待ちの間、連れの友と空港内を歩きまわる。修学旅行のような気分でいる私は、それだけで楽しい。
 テル・アビブ行きの出発ゲートは、テロを警戒して、出発間際にならないと教えないそうだ。
 待合いロビーに、黒服をまとい、黒い帽子をかぶった超正統派ユダヤ人の集団がやってきた。イスラエルへ帰る人たちだろうか。コートを脱ぐと上着の裾から白い房が四つ見えた。帽子の下からカールした黒髪が両耳に垂れている。帽子を脱ぐと、皿のようなキッパーを頭にのせていた。大人はあご髭をたくわえている。これら一つ一つに宗教上の意味があると聞いたが、思い出せない。
 機種がボーイング767で小さくもあり、満席で、人いきれで満ちていた。9・11テロ事件で乗客は減っていると思ったが、意外である。ロンドンからキプロス島へ寄り、一九七二年、日本赤軍による乱射事件があったテル・アビブ空港に到着した時は朝だった。空港は、こじんまりしていた。
 快晴である。バスで海抜八百メートル高地のエルサレムを目指す。
「イスラエルは日本の四国より少し広いだけの国で、地はカリを含んで肥沃だが、水が少ない。昨日までの三日間は大雨でした。この国では、雨は天の恵みなのです。今、世界のあちこちで砂漠化が進んでいますが、イスラエルでは砂漠が森に変わりつつあります。ユダヤ人が植林を奨励しているからです」
 ガイドの話を聞きながら眺める車窓は、広々とした耕作地が続き、緑が濃く映えている。土が黒い。陽をまぶしくあびたオリーブ畠や集落を過ぎた。パレスチナとイスラエルの紛争地域はどの方向だろう。バスの窓から見るかぎり、のどかな風景が広がっていた。
 やがてバスは石ころだらけの丘陵へと入った。岩が湧き水で光っている。アーモンドの木が小さな白い花をつけていた。
「あれは?」
 団体客の一人が指差した方向を見ると、丘の上に錆びついた砲台があった。
「第一次中東戦争で使われた物です」
 ガイドの説明に私は首を傾げた。なぜ片付けないのだろう。五十年以上も経っているのに、不思議だ。少し走ると、今度は列車の残骸が丘にあった。
「あれはドイツ・ナチスがユダヤ人を強制収容所へ送りこんだ列車です。ユダヤ人は『赦す、されど、忘れず』なのです。ホロコースト記念館もエルサレムにできました」
 ということは、代々、憎しみを伝えることにはならないのか。ユダヤ人のなかには、強制収容所の大虐殺は勿論、十字軍遠征による虐殺、もっと昔の古代ローマ皇帝コンスタンティヌスの虐殺まで遡って話す人がいる。そして、ホロコースト記念碑を世界のあちこちに作っている。それに比べ、日本人は淡白なのか「原爆記念館」は、投下された広島にしかない。歴史と民族性の違いだろう。
 バスは、古代、ローマ軍がエルサレムに向かって進軍した道を登っている。通勤ラッシュだ。遠くない丘に新興住宅地が見えた。
 ガイドは説明を続けた。
「よく見て下さい。ユダヤ人入植地の住宅団地は石垣で防御し、戦争に備えた作りになっています。つまり要塞です。家を建てる時、爆弾よけのシェルターを作ることが法律で定められ、また補助金が出ます」
 常に戦争を考えて暮らす生活。なんという不幸な国民だろう。
 ホテルの部屋から、石ころの散らばる丘を二つ超えた向こうに、パレスチナ自治区ベツレヘムの街が見えた。今回の旅行は、緊迫化しているイエス誕生の地ベツレヘムへは行かないことになっていた。だが、紛争の現場がどのような状態なのか、知りたい、見たい。
 ガイドはいう。九十%安全だと思う。しかし、事件が起きた時、イスラエル政府はどうすることもできないと。
 黄金のドームが西陽に照り映えるころ、エルサレムの街が見渡せる丘へ行った。
 二千年前、ナザレ派のイエスがローマ兵に捕縛されたゲッセマネのあるオリーブ山が右手前方に望める。当時、塵埃を焼く炎が一日中立ち昇っていたという眼下の谷は、今、ベージュ色の建物で埋め尽くされている。
 突然、谷の街にコーランが響き始めた。
 地図を広げた。地図のなかでエルサレム旧市街は、イスラム教徒地区、ユダヤ教徒地区、キリスト教徒地区、アルメニヤ正教徒地区と分けられている。なんと複雑で暮らし難いのかと思い、また、この国の人たちが辿ってきた過酷な歴史に、思いをはせた。
               つづく

 

編集後記

読売ジャイアンツ、今年は強いですね。阪神タイガースもがんばっているので面白くなってきました。
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Zakkaya Weekly No.521

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com