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NO.519                Ryo Onishi              4/23/2006   

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雑貨屋のひとり言

金曜日、第7回の関西加州会が開催されました。
幹事の田渕さんのお世話により21名が集まり盛大に行われました。
駐在経験者が大半のメンバーの共通点はロスが、カリフォルニアが、アメリカが大好きな人たちなので話のなかに懐かしい聞き覚えのある固有名詞がでてくるのでうれしくなります。ソーシャルセキュリティー年金の話で盛り上がるのもこの会の特徴かもしれません。会場は昨年とおなじ大阪中央区道修町にある『味の花菱』、居心地のいいお店なので、人気が高くメンバーの皆さんもよく利用されているようです。ちなみに『味の花菱』をGoogleで検索したら『味の花菱』を紹介した雑貨屋ニュース478号(2005年7月10日)が出てきました。大阪に来られる機会がありましたら、是非お立ち寄りください。(R.O.)

人間到るところ青山あり

男兒立志出郷關(男児志を立てて郷関を出ず)
學若無成不復(学若し成る無くんば復還らず)
埋骨何期墳墓地(骨を埋むる何ぞ期せん墳墓の地)
人間到處有山(人間到る処 青山有り)

幕末の勤皇僧であった 釈 月性 が詠んだ漢詩で、私の好きな詩のひとつです。(資料によっては「學若無成不復、埋骨何期墳墓地」が「學若無成死不還、埋骨豈惟墳墓地」となっています)
『将(まさ)に東遊せんとして壁に題す』と題されたこの詩は、学問の為、故郷を後にして、上京する青年の志を詠じたものといわれています。

――― 男子たるもの、ひとたび志を立てて故郷を出たからには、学業が成るまではたとえ死んでも決して帰らない決心である。骨を埋めるにどうして故郷の墓地に執着しょうか。
広い世間には、どこへ行っても骨を埋めるところ(墓地)があるではないか。―――

 私の知る限り、例えば中国人や韓国人がそれぞれ祖国を離れ異国で生活する場合、移住地に定着してしまう割合が多いと感じます。現に地球上のあらゆる国に華僑(Overseas Chinese)と称する中国系の人々が定着しており、世界中の華僑の総人口は2千万人とも3千万人とも言われています。

華僑の「華」は中国を意味し、「僑」は“仮住まい”の意なのだそうですが、現実は“仮住まい”ではなく永住者が多いのではないでしょうか。彼らはまさに「人間到る処 青山有り」を実践しています。これだけの華僑人口が世界中にいるということは、それぞれの地で政治的、経済的影響力すら行使することも出来ます。

それに対し、一般論として日本人は海外に限らず郷関を離れても移住地に骨を埋める覚悟の人は相対的に低いようで、最後にはまた祖国、故郷に戻りたいという意識(潜在・顕在の違いがあるも)があるといえましょう。“故郷に錦を飾る”という言葉があるほどです。

 私自身も郷関(生まれ故郷)を遠く離れ海外の地で(一応)頑張っていますが、果たしてここ米国で骨を埋める覚悟までしているかといわれると、気概はともかく、恥ずかしながら“否”といわざるをえません。足腰と口が達者なうちは米国も住み心地は良いのですが、個人主義で競争社会の米国では心身の老化は最大の敵(ハンデ)であり、青山を米国に求めるか迷います。

「広い人間(じんかん=世間)どこへ行っても骨を埋めるところがあるではないか」――― 壁に題し詠じた釈 月性の心意気は“言うは易く、行うは難し”ですが、また、それだからこそ迷いの多い私自身にとって永遠の銘であるといえます。

                     河合 将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り言証明・可能不可能

企業年度スタートが4月だという企業が多い日本、4月は06年度キックオフミーティングで賑わう。私の勤める会社でも、先日泊りがけのキックオフミーティングを開催、長いミーティング後のパーティでは、社員手作りのプログラムで大盛況。その中でも、事前アンケートによってノミネートされた「***賞」等は、その場を一層盛り上げた。というのも、私もまぐれでノミネート、「***賞」を受賞し、賞品を受け取った。それは家庭用星空投影機『ホームスター』(製作:株式会社セガトイズ)、とても嬉しかった。夢のある賞品そのものも感激したが、受賞会場で開封したその箱から出てきた一枚のカードに記された製品の共同開発者(大平貴之)の言葉が心に響いた。「人は、可能は証明できるが、不可能は証明できない」と。

頂いた製品『ホームスター』の共同開発者、大平貴之の言う“証明”の意味とは異なるが、大学時代に“証明”について話してくれた恩師が居た。「“証明”とは、写真を撮る時にピントを合わせるようなもの。自分というものを、または物事を、光にあててピントを合わせること」と話してくれたものだ。人生において時に人は、自他共に理解や説明できない事に遭遇し、ある時は地獄や迷路へ、ある時は天国や夢の世界へと分岐するものだと。その時、良くても悪くても、自分や物事を光にあててピント合わせを試み、映し出される写真や映像を眺めてみるといいと、説いてくれた。いいことばかりは続かない、そして悪いことばかりも続かない、そんな人生の季節を、カメラのレンズで眺めてみなさいということだったのかな。

ところで、頂いた賞品『ホームスター』を、早速自宅でセットアップしてみた。「本賞品は、できる限り本物に近い満天の星空を家庭で楽しんでいただくことを目指し・・・現代の日本、特に大都市圏では、ネオンや夜間照明の過剰な使用等により、夜空の明るさが増大し星が見えなくなる『光害』が進み、星が見えにくくなっています。『ホームスター』は、失われつつある星空本来の美しさを、一人でも多くの方々が自宅で手軽に体験していただきたいという願いを込めて開発されました・・・」という取り扱い説明書の「はじめに」にあるように、家に居ながらにしてプラネタリウム体験ができることに感激。小さなベッドルームの一角に放たれた光が投影される、が、ピントを合わせなければ、単なる一光とぼやけたすりガラスの様なもの。ピントを確かに合わせると、壁に満点の星空を映し出す。浮かぶ春の星座、ほんのかすかなスピードだが確かに動く、夢・ロマンというよりは、癒しに近い。こうして小さな部屋で独り静かに星を観ていると、毎日の事象や自分自身に一喜一憂したり悩みもがいたりすることが、壁に映る星の点よりも小さなことなのだと悟る。そこには、光に焦点を合わせて映し出される自分と同時に、証明できないことの多い人間や物事、社会や世界、そして地球や宇宙なのだと知る。

さて、先日、この賞品を貰ったパーティ前のビジネスミーティングでは、他の部署の年度方針発表同様、私もプレゼンテーションを担当した。ところが、200名足らずのしかも社員だけが聴衆のそのプレゼンで、私は理由もなくアガってしまい、声はうわずり、光によって映し出された自作の資料を上手く説明できなかった。この業界における女性プロフェッショナルのロールモデルであるべき自分のこの失態に、ショックは隠せない。その時、在米時代、何か仕事で失敗して落ち込んだ時に覗いていたNASAのあるページhttp://antwrp.gsfc.nasa.gov/apod/archivepix.html、Astronomy Picture of the Day Archiveのある画像を思い出していた。そして、後のパーティで運よくタマタマ頂いた家庭用プラネタリウム、証明できない偶然の重なりだった。今、小さな部屋の壁と天井に映し出された光にむかって、私たちは生きている、どんな時も、証明できない無限の世界に・・・っと呟く、さくらの独り言。

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

父の背を横目に脱皮繰り返す

近道が好きな息子の免許証

娘の料理みんなバターの味がする

娘の挙式父賛美歌と妥協する

晩成を親の欲目がまだ信じ

( ニュースやぶにらみ )

「新庄選手今季で引退」
来年の参議院選挙にどうかな −小泉首相

「竹島近海」
暴風波浪注意報 −気象庁

「35歳だけ500円賃上げ」
薄型です −シャープ

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

連載     母と私(下)
                                               
  ある秋のことである。
広島の実家へ里帰りした私は、母が老人保健施設に入ってからは空き家になっている実家の屋敷を、ぶらりと見てまわった。母のいた隠居家を除いて、母屋や離れ座敷の傷みは激しい。畳は朽ちてキノコが生え、入るのもはばかられた。周りは庭というより雑草だらけの空き地である。まったく樹木がないわけではない。庭木はジャングルと化し、蛇や百足にトカゲなどが這い出してきそうで一歩も踏み込めない。石垣に沿って植えられた柿、枇杷、夏蜜柑、無花果などが手入れもされず生い茂っていた。若かった父が子供のおやつにと植えたものである。
施設にいる母は、庭や田畑が草まみれになろうと目にしなければ気にすることはない。好きな手芸などをして快適な日々を過ごしているものだとばかり思っていた。ところが、あにはからんやこういった。
「ここにおると身体がダメになってしまう。早く家に帰りたい」
 だが、子供にもそれぞれ家庭がある。実家に帰って母といっしょに暮らすことはできない。実家の隣に住む長男夫婦が一日一度でいいから母の様子をみてくれれば問題ないのである。しかし、父が亡くなり相続争いがこじれてから、兄夫婦と母は没交渉だ。
「ババさまは看ません」
 きっぱりと兄嫁がいった。
厚生証書まで作成して遺産を相続させた跡取り息子の末弟は十数年前に岐阜へ転勤してしまった。当てが外れたのである。
「うちにきて一緒に暮らそう」
 姉妹はいうけれども、母は頑なに拒む。
 ロサンゼルスに住む私が帰ると、
「のりちゃんがおってくれたら」
と、母はいった。
たまにしか会わないからいいのである。身近にいて母の世話をしている姉妹や施設を訪れる兄たちは、時には気にいらない雑事も耳に入れねばならず、割に合わない話だ。その事を母にいうが、同じ愚痴をこぼす。
何事かあると岐阜からはせ参じていた弟夫婦が母を引き取ることにした。近所に『特別養護老人ホーム』ができたのである。
ちなみに老人保健施設は、比較的安定した状態の寝たきり老人などのために、看護、介護、リハビリなどを行い家庭への復帰を図る施設であって、特別養護老人ホームとは、六十五歳以上の心身障害のため常時介護を必要とし、在宅での介護が困難な老人の福祉施設だと、広辞苑に載っていた。
                   
母は九十六歳になっていた。
長く暮らした土地から離れることは老いた身には酷ではないか、痴呆になるのではないかと危惧したが、月日とともにしだいに馴染んでいった。ハワイで生まれ子供のころ日本へ帰ったその環境が新しい地への順応力を養ったのかもれない。最初は、弟夫婦と暮らせるという喜びがあったようだが、一ヶ月後にいきなり施設に入れられ、母の思惑が外れた。
「いつ迎えにきてくれるのかのう」
施設を尋ねると母が聞く。私は返事に困った。老いの侘しさが伝わり、涙があふれそうになった。哀れだった。
いつごろからだったろう。訪日した私は母との別れ際に「もう逢えないかもれない」と、思う気持ちを敢えてやめることにした。
「逢える、絶対にまた逢える」
別れの悲しさを紛らわすために、自分に言いきかせたのである。
それから何年過ぎただろう。
施設に入った母は絵を描きgirlとかboyなど簡単な単語を書きそえていた。年に一度か二度、母を見舞うと、
「わたしが若けりゃアメリカへ行くのに」
と、残念そうにいった。
だが、さすが九十九歳ともなれば身体の衰えが急に進んだ。耳が遠くなったので話しかける人も少ないのだろう。すぐに言葉が出ない。反応が鈍い。食堂のテレビを観ながらボッーとしているが、老人性痴呆症ではない。
 私は、テーブルの上にクリームがあったので看護士さんに使ってもいいかと尋ねると「施設の物だからどうぞ」という。
老いの肌は乾燥し痒くなる。私は母の顔や手足をマッサージするようにクリームを何度もすり込んだ。手足は、枯れ枝のように細く力を入れると折れそうだ。気持ちがいいらしく、うっとりした表情をしていた。
翌日、母を見舞うと顔色がいい。
「今日はとても機嫌がいいですよ。朝からニコニコしておられます」
 看護士さんがいった。
これだ!
やさしい言葉も必要だけれど、老いの身には幼児と同じにようにスキンシップが必要なのだ。こんな簡単なことを今ごろになって気づくとは・・・。できることなら毎日でも通って肌をさすってあげたいと思った。
もうすぐ母は百歳を迎える。

  枯れ枝に似たる愛しき母白寿
                                                                                         おわり

 

編集後記

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Zakkaya Weekly No.519

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
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