――― 前号よりの続き ―――
「教育勅語ってナニ?」と、いまどきの若者から聞かれそうですので、私も改めて国語辞典をひいてみました。次のように書いてありました。
【教育勅語】:明治天皇が国民道徳の根源、国民教育の基本理念を明示するために下した勅語。明治23年10月30日発布。第二次大戦の終わりまで教育の基本方針を示すものとされた。―――
岩波書店、広辞苑(第二版)――― |
教育勅語は前記の通り、明治憲法(大日本帝国憲法)下の明治23年(1890年)に「明治天皇のお言葉」として国民に示され、敗戦後の昭和23年6月、新憲法下の国会で排除、失効されるまで日本国民の道徳と教育の目標とされたものです。
明治憲法では、わが日本(大日本帝国)は天皇によって国は統治される(第一条)と規定され、また天皇は神聖にして侵すべからず(第三条)とも規定していました。その天皇が下したお言葉は絶対的な権威のあるものでした。
教育勅語が明治憲法の天皇主権主義(君主主権)に基づいたものであり、軍国主義の推進のため国家に忠実な人間の育成を目的としたことはその文章からはもちろん、成立の経緯(*下記注)をみても明白です。したがって戦後の現行憲法(日本国憲法)下では徹底的に排除されてきました。
しかし、前回も書いたごとく、私が調べた資料によると、現行の教育基本法の制定時(昭和22年)は「教育勅語の排除・失効」前であり、現行教育基本法と教育勅語は車の両輪のように互いに補完関係にあり、決してこの勅語は敗戦とともに排除されたのではなく、現行教育基本法制定されてからも更に一年余り道徳的側面の指針として生きていました。
要するに現行教育基本法は制定当時、教育勅語と共存し、民主主義、平和主義(基本法)、倫理・道徳(勅語)と役割分担し、両者が車の両輪として機能するようになっていたようです。
【*注】教育勅語立案、作成の経緯:そもそも教育勅語を立案したのは当時総理大臣であった山県有朋であり、彼が文部省に働きかけて「国民を教育する為の『勅語』を作成させたのがそのはじまり」とされています。山県有朋といえば、日本陸軍の創設者であり、徴兵令や軍人勅諭など明治の軍制の整備に努めた政治家兼軍人です。国家に忠実な国民を作り、強力な軍事国家建設のための教育を推進しようと意図したことは明白でしょう。
以下は「教育勅語」の原文です。
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽 |
河合 将介(skawai@earthlink.net)
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