逆を順にかえた人(1)
大野勝彦氏の場合
「私は、自分で腕を切りました」
えっ、どうしてですか、と聴きたい思いを胸におしとどめ、身を乗り出して次に出てくる言葉をまっていた。
「農作業を終えトラクターにつけた散布機のスイッチをいれて洗っていたとき、巻き込まれた右手を左手で引き抜こうとしたところ、左手まで巻き込まれてしまった。グイグイ巻き込まれていく。つぎは腕、肩、頭。このままでは死ぬ。と、その時三人の子供の顔が浮かびました」
と、ここで一息つき、コップの水を一口飲んでから朴訥な熊本弁の話は続いた。
「まだ死なれん! と、思った。私は渾身の力を込めて両腕を引きちぎった。残ったのは右腕肘の先七センチ、左腕肘から十二センチ。事故が起きて三日目から右肘にペンをくくりつけて字を書きはじめました」
あれから十五年、両腕を失った大野氏はアメリカ製の義手をつけ、絵を描き、その時の思いを詩に託して書いている。
去る四月二十三日、リトル東京の某ホテルで大野勝彦氏の講演会があった。そのときの話である。大野氏の詩画集を見ると、さら~とした水彩画もいい。字に味がある。わかり易い言葉で書かれた詩は、ほのぼのとした温もりを感じさせる。
「人はカベにぶっかると強くなると思っていた。でも私は、ぶっつかる度にやさしくなっていった気がする。それが嬉しい。それがありがたい」と。また、両腕を失って幸せだったと大野氏は言い切る。
それに比べ私だったら、身の不運を嘆き、苦情ばかりの日々過ごすのではなかろうか。大野氏の徹底した前向き思考や感謝する心は、いったいどこからきているのだろう。何かある。探ってみたい、と思った。
一ヶ月後に訪日旅行を予定していた私は、阿蘇山麓にある「大野勝彦美術館」を訪れることにした。友人にその話をすると熊本シニヤネットのメル友「勝子さん」を紹介された。彼女は大野勝彦邸で月一度開催される「やまびこ塾」へ参加しているそうで「大野氏の在館は五月二十四日です。せっかくお出でになるのですから本人とお会いになったほうが嬉しいでしょう?」日程を調整できないかという情報までもらった。
私は五月二十三日、広島に住む姉妹と熊本駅へ降り立った。冴えないおばさんの三人連れですと電話で知らせておいた。勝子さん、どんな女性だろう。シニヤネットの知り合いというからには年配の方に違いない。だが、それらしき人は見当たらない。
すると、フアッションモデルのような女性に声をかけられた。びっくり仰天である。
三人を車に乗せた勝子さんは、青草茂る阿蘇の外輪山を走り小国富士の見えるやまなみハイウエィに入った。快適なドライブ日和だ。
「阿蘇の外輪山は世界一なので『世界自然遺産』に登録されるように申請したのですが、ダメでした。人間の手で野焼きするのが理由です。しかし、阿蘇の山は野焼きす
るから保たれているのです」 などと、勝子さんの説明を聞きながら、根子岳が遠くに望まれる国民宿舎に落ち着いたのは夕方六時を回っていた。
翌朝、考古学専門という男性と勝子さんは私たちを迎えにきた。VIPのような扱いに私は恐縮するやら申し訳なさで、フリーズ状態になってしまった。草千里の野花を探して歩く。山麓を彩るミヤマキリシマは、今年は毛虫にやられそうで花が少ない。
午後から念願の「風の丘大野勝彦美術館」を訪れた。 正面玄関を入る。カーボーイハットのよく似合う大野氏に出迎えられた。笑顔がいい。思わず私は握手しようと手を出して、はっとなった。握手する手がない。戸惑っている私の前に、大野氏は義手を外して擦りこぎのような右腕をぬっと出された。
柔らかい腕だった。
展示場にはロサンゼルスでスケッチされた絵が特別コーナーを設け飾ってある。詩がない。その時に感じた言葉をその場で書かないと意味がない。あの時は時間がなくて書けなかったそうである。
大野氏は、四十五年間一度も絵を描いたことも書道を習ったこともないと云われる。だのにどうして、という思いが自然に湧いてきた。私は不躾を承知で尋ねた。
「子供のころ美術館へ行くのがお好きだったのですか」「いえ、農家でしたから、そんな」 はにかんだような答えだった。
私は大野氏の詩画集を読んでいて、ある部分に目が止まった。
「祖父は、一生を住民の先頭に立ち、特に子弟の教育に捧げた人です。特別な教育を受ける時間もなかったであろうに、古典を読み、聖書を語る人でした。不作で収穫のない秋には、自分の貯えをはたいて麦を買い、イモを集めて来る人に配ったと聞いています。祖父は私の人間形成に大きな影響を与えました」
大野氏の優しさとか前向き思考はこれに違いない、と私は思った。
おわり
森田のりえ noriem@JoiMail.com
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