善意の一億円 一億円の善意
友人のK子は、臓器移植のために日本からくる患者や家族のボランティヤをしている。通訳や車の送迎、買い物、ホテルやアパート、レンタカーの手配、銀行口座の開設、時には、不安な時間を過ごす家族の話に耳を傾ける。十三人のボランティヤが自分のできる範囲のことを受け持っている。
「いまならFWYが空いているから、ちょっと行ってくるわ」
K子の家から交通渋滞時を外せば四〇分かかるUCLAメディカルセンターまで、彼女は気軽に出かけていく。
アメリカの心臓移植者は年間約二〇〇〇例あり、全臓器提供者数の五%枠を設け、海外からの患者を受け入れている。昨年、UCLA(米カリフォルニヤ大学ロサンゼルス校)メディカルセンターで心臓移植のためにきた日本人は、幼児二人と十八歳のTくんの三人であった。
昨年の八月、Tくんは補助人工心臓を装着し医師や看護婦、機械メーカーの技術者に付き添われ、家族そろってやってきた。
「わたしと同じ和歌山の人だからサ」
K子は同郷のよしみだといって、Tくんの家族をたびたび訪れていた。
Tくんが重い心臓病だとわかったのは高校入学後の健康診断であった。レントゲンに写っている肥大した心臓、水がたまった肺、異常を示す心電図。診断は心筋炎。和歌山日赤病院や京都大学付属病院、国立循環器病センターなどで治療したが効果がなく、病状は悪化する一方。医師はTくんのお母さんに告げた。
「特発性拡張型心筋症で、二十歳くらいまでしか生きられないでしょう。心臓移植という外科的治療以外に助かる道はありません」
日本で脳死を死と認めた臓器移植法が成立したのは一九九七年である。ちなみに、十五歳未満の脳死は認められていない。日本の移植医療は可能で技術的にすぐれ態勢も整っている。だが、ドナーが少ない。脳死患者からの移植はこれまで二十例余り。Tくんのお母さんは、UCLAメディカルセンターで心臓移植をした子供たちが何人も元気になっているのを知り渡米を決意。問題は渡航移植に必要な莫大な費用である。
和歌山県庁記者クラブで最初の記者会見をして募金活動を始めた。目標額は九千万円。やりかたも分からず、お金も集まらない。何より人々に関心をもってもらうことが大変だった。救う会が結成され大阪駅で街頭募金をする。一日中立って十万円から二十万円。コンクリートの照り返しの厳しい時期で、気分が悪くなったとTくんのお母さんは述懐した。
TくんがUCLAメディカルセンターへ到着した時点でボランティアのコーディネーターから、患者の情報が十三人のボランティアにEメールで送られてくる。
「現在UCLAの大人の移植待機者はTくんだけです。移植者リストに載れば早くドナーが現れるでしょう。積極的に病院へお見舞い行ってください。通訳も必要です。都合のつく人は病院へ行ける日時を連絡してください。重複しないように調節します」
患者だけでなく、悲しみのどん底で落ち込んでいる家族の話し相手になるのも重要である。半年以上になる滞在に必要な生活用品などを持ち寄ったりもする。
Tくんは予約金五十万ドルを支払いUNOS(全米臓器移植配分ネットワーク)待機者リストに載せられた。移植コーディネーターは、患者の重度、血液型と心臓・肺の大きさ、性別、年齢など細かく分類し、UNOSからのドナー情報をいち早くキャッチし医師に伝える。医師は臓器が患者に適合するかどうかを検証し、家族に知らせる。ドナーの心臓は4時間以内に患者に移植されるのである。
Tくんにドナーが現れたのは渡米一ヶ月半後。若い女性の心臓であった。
経過は良好。現在、Tくんはお母さんとふたりUCLA近くのアパートで、五月末の帰国を待っている。
今年はカリフォルニヤポピーが近年まれな「あたり年」だ。K子は、Tくん親子と一緒に見に行こうと私を誘ってくれたのである。
「日本では見られない風景だから、ぜひ見せてあげたいのよ」
三十年前、私はポピーを見に行ったことがある。あの時は場所を間違えたかと思うほど咲いていなかった。私たちはお弁当持参で出かけた。平原に入りポピーの群生が見え始めると「きいれだねぇ、すごいねぇ」というTくんやお母さんの感嘆の声を聞くと、私まで嬉しくなった。そして、K子のやさしい心根を思った。
鮮やかなオレンジ色のポピーの花が丘陵を染めあげている。Tくんは、丘陵のトレイルを蝶のように飛びまわり、写真を撮っていた。
「T、生きていてよかったなぁ」
お母さんの一言が、私の心の奥底に響いた。
普通に生活ができることを喜び、幸せを感じる。私には、窺うことのできない心境であった。
おわり
森田のりえ noriem@JoiMail.com
|