私と父
無意識に口ずさむ歌がある。
初夏、ロサンゼルス郊外に街路樹として植えられたジャカランダに花が咲いた。薄紫の小さな花が満開になり、風まで薄紫に染まったように見える。私は桜の花に想いを重ね合わせながら夕方散歩をしていると、知らぬまに口ずさんでいた。
♪ 濡れた子馬のたてがみに
なでりゃ両手に朝の露
私の故郷は、広島市から瀬戸内海沿線を西へ行った所にある日本三景のひとつ「安芸の宮島」との中間にある。いまでは広島市に組み込まれているが、もとは観音村という弘法大師ゆかりの極楽寺を山頂にいただく山裾にひらけた村であった。ほとんどが農家で、どこの家でも農耕用に牛を飼っていた。だが、なぜかうちだけは「アカ」という名の馬がいた。
子供のころ、下校途中に父と出くわそうものなら、必ず仕事をいいつけられた。
「帰ったら、藁を小切っておけよ」
刃物の長さが身長の半分はありそうな「押し切り」という農具で藁を五センチほどの長さに切り飼葉をつくるのである。ひとりでは押し切りを使いこなせないので姉妹でやる。ひとりが藁束を下刃に乗せ、もうひとりが上刃を下ろす。いま考えると、けがもなく五本の指が全部そろっているのが、なんとも不思議な気がする。父は「♪濡れた子馬のたてがみを〜〜」と鼻歌まじりで、小切った藁に飼葉と糠を混ぜて米のとぎ汁をかけ馬の餌をつくっていた。時たま、馬に乗せてくれたりもした。始めはタヅナを握りしめているから、馬が道端の草を食べようものなら前につんのめって落ちそうになる。次第に要領を覚えてくると、馬に乗せてもらえるのが嬉しくてしかたがなかった。父は肥桶を天秤にかついで中身が飛び散るのもかまわず畑に下肥を運び畑仕事をしながら、やはり、あの歌をうたっていた。
私は日本へ行ったとき、この話しを二つ違いの妹にしてみた。
「そんな歌をお父さんが唄っていたなんて、覚えていないわ。わたし、おとうさんにはよく抱いてもらったし可愛がってもらったわ」
妹は遠い記憶を探すような眼でいったのである。
私は父に甘えるどころか、すれ違いざまに「つらっこうな」といって、ピシャと頬を殴られたことさえある。これは広島弁で、生意気だ、可愛げがないという意味である。そのころ、毎晩晩酌をする父のおかずが一品多いのも許せなかったから、タクアンをかじりながら睨みつけていたような気がする。きょうだい十人というのも嫌だった。恥ずかしいと思った。
「お父さんは一人っ子じゃったけえ、本当は十二人子供が欲しかったんじゃ」
しゃあしゃあと言ってのける母も私は見下したのである。
だが、社会に出て働くようになり最初の給料を、
「お父さんのお蔭です。ありがとう」
と、殊勝なことを言って渡すと、父は随喜の涙を流した。しかし、親孝行は所詮付け焼刃で生来の反発心が頭をもたげ、妻子ある上司と駆け落ちをして親の顔をまっくろに塗りつぶした。家にひきずり戻された私に小言ひとついわず、
「そっとしといてやれ、いまは何もいうな」
といっている父の言葉をベッドのなかで聞いた。
「人生は悪いことばっかりはない。いつかいいことがある。ちょっとの辛抱だ」
そういって、父は励ましてくれたのだった。
一九七〇年夏、父は渡米する私を広島空港まで見送りに来てくれた。中風で不自由になった足をひきずりながら、何かいいたそうに父が近づいてくる気配がすると、私は、くるりと背を向け友だちと話しをした。でも、私には分っていた。「身体に気をつけるんだぞ」と、いいたい気持ちがーー。
「お父さん、元気でね」
その一言がいえず、焦れば焦るほど言葉が喉にひっかかって涙があふれそうになる。とうとう、言葉を交わさずじまいだった。飛行機の窓から空港のデッキを見ると、どこに座っているかも分らない私に、父は一緒懸命に手をふっていた。
その父はもうこの世にいない。
おわり
森田のりえ noriem@JoiMail.com
|