連載 こんな身体で温泉旅行(10)
ユタ州に入ると夏のような天気だった。
快適なドライブだが「頭が割れるように痛い」と、夫がいいはじめた。しかし、見渡すかぎり、竹箒のような潅木が点在するばかり。しかたがない。路肩に車をとめて夫はタイノールを飲み私と運転を交代した。そのときにフロント・ガラスの左端を見ると、ヒビ割れが五センチにひろがっていた。追い越しざまのバスに泥雪を跳ねられたときの傷である。セロテープを2重に貼り、ひた走りに走った。
つい数日前、バケツの水をひっくり返したような豪雨のなかを走った辺りである。前方には果てしなく、ただもう地平線の果てまでまっすぐな道路がつづく。潅木がしだいになくなり、荒野は赤茶けた不毛の砂漠となった。鉱物資源をたっぷり含んでいそうな土である。おどろいたことに、砂漠のド真ん中に「For sale」と書かれた広告が立っていた。どうしてこんな土地を何のために、と思ったが、ふと国土管理局の役人だった友人がこんな話をしてくれたことを思い出した。
「アメリカの山地や砂漠などの国有地は信じられないほどの廉価で買えるんだよ」
いくらで買えるのか尋ねると、1エーカーがたったの2ドル50センだという。
「しかし、手続きは面倒だし費用もかかる」
簡単には買えないと釘を刺し、こんな話をしてくれたのである。
アメリカ独立戦争のころ、兵士は給料として土地が与えられた。それ以後、戦争や買収合併などによって19世紀中ごろまでに、ほぼ今日のアメリカ領土の形が完成された。広大な領土を開発するために宅地法が制定され、21歳以上の公民は5年間その土地を耕作すれば、160エーカーの土地を無償で入手できることになった。この規定は西部開拓をすすめる原動力となり、ホロ馬車に乗った開拓者はカリフォルニヤやオレゴンに向いはじめた。平地のほとんどは私有地になった。そして、山地や砂漠が残った。カリフォルニヤに金鉱が見つかり、一攫千金を夢見た山師たちが山地をうろつきはじめた。そして、ゴールド・ラッシュを契機にして、1872年に鉱山法が制定された。
そのときの最低の売値が1エーカーで2ドル50センだった。何度か修正されたけれども現在もこの法律は生きている。例えば「ここは私の鉱区です」と登録する。自分で鉱物資源を探して見つかれば、政府に土地を売ってくださいと申請する。国土管理局の役人が鉱物資源の有無を調べ、開発して採算が合うか土地であると判断すれば民間に払い下げられる。問題は、国と民間との調査結果がくいちがう場合で、裁判になる。莫大な弁護士費用がかかり、年数もかかる。
「現役のころ、砂金がとれるというから、川底に潜って調べたこともあります」
いったん土地を入手すればホテルを建てようが何に使おうが自由だという。ラスベガスなどは以前には砂利も資源とみなされたので、この方法で土地を手に入れ大金持ちになった人が多いそうである。
そういえば『荒野の1ドル銀貨』という西部劇映画があった。19世紀の1ドルの価値はいかほどだったのだろう。相当な価値があったに違いないなどと話しているうちに、ソルトレイク近くになって車がつかえ出した。夕方のラッシュアワーにぶっつかったのである。ぼたん雪が降ってきた。暮色がせまる。ぼんやりと高層ビルが見えてきた。
街の中心地にあるホリディ・インに宿をとった。部屋へ荷物を置くと、無償にお鮨が食べたくなり日本食レストランを探しに街へ出た。お鮨は、やはりおいしかった。
夫は、ベッドへ入ると野獣のようなイビキをかきはじめた。疲れたのだろう。深夜、隣の部屋からシャワーの音、歩く音、ガタガタする音がして、私は目がさめてしまった。 つづく
森田のりえ noriem@JoiMail.com
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