No.439          Ryo Onishi               10/11/2004   

 

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雑貨屋のひとり言

 週末、台風22号が近づき、秋雨前線の影響でに日本列島が大雨の中、ワイフと信州・飛騨に向け出かけました。結婚30周年記念で南さん、松本さん夫妻と下呂温泉で逢うことになっていたからです。その前に、どうしても懐かしい上高地を訪れて見たくなり、信州に向かいました。しかし、予想通り?雨の信州で過ごすことになりました。日曜日の朝、雨が上がり、念願の上高地を訪れることができ、ワイフは生まれて初めて、そして私は25年ぶりの訪問で上高地を楽しみました。そして午後、白川郷で南さん、松本さん夫婦と10年ぶりの再会(南さんは3年ぶり)を果たし、昨夜は下呂温泉で飛騨牛と地酒、そして温泉でとびきり楽しい時間を過ごすことができました。いい友と過ごす時間は最高です。久しぶりの長距離ドライブ(1100キロ走行)で、ちょっと疲れましたが、日本のすばらしさを認識できた旅行でした。(R.O.)

日本語は難しい?!(2)< いいよ、結構です> 

  (1) やはり、やっぱり:
日本人がよく使う言葉に、「やはり」とか「やっぱり」 があります。 地域によって 「やはり」と「やっぱり」 は使い分けられているそうですが、年齢層による使い分けもあるような気がします。

主として中年層以上の人に 「やはり」が多く、若い人は元気に 「やっぱり」と言う人が多く見受けられるような気がしますが、どうでしょうか。 

ところが 最近の超若者によると 「やっぱり」なんて ダサイ、「やっぱ!」と言うのがカッコイイのだそうです。

私が聞いた話にこんなのがあります。――― 日本語を研究している ある外国の学者が、日本には 「やはり」 と「やっぱり」という 同じ意味の言葉がある。 実際に はたして どちらが多く使われているのか知りたいと思い いろいろな日本人に聞いて廻ったそうです。 

ある日本人に 「あなたは 『やはり』と『やっぱり』のどちらを使いますか?」 と聞いたら、「そうですね。“やっぱり”“やはり”でしょうな」 と答えたそうです。

(2)ちょっと:
日本語を理解でき 日本通を自任する アメリカ人と、我々の共通の友人について話をしていた時のこと、私が、「彼は ちょっとした金持ちでねーー」 と話し始めたら すかさずこのアメリカ人、手を大きく振りながら、「 NO!、NO! カレハ チョットデナイヨ。 タイヘンナカネモチヨ!」 と声を張り上げました。

このアメリカ人に、「あなたは ちょっとした日本通ですね」 なんて言ったら、彼はどんな顔をするでしょう。

 もしかしたら「ワタシハ、チョットデハナク、タイヘンナ日本通ダヨ!」と気分を害して怒り出すかもしれませんね。
  
                                                                   河合将介( skawai@earthlink.net )

さくらの独り言「響き合い・・・四島(しま)と島

けっして博学でもなく、ましてや辛酸を嘗め尽くした人生の達人でもない私に、どういうわけか、いろんな相談事を持ちこんでくれる友人が多い。進学のこと、就職・転職のこと、おまけに、経験不十分の(というより未熟と思っている)恋愛に至る様々なこと・・・そして最近、ある友人から、ちょっと異質で唐突な相談を受けた。「北方領土返還啓発活動(キャンペーン)について」である。はて、さて、「北方領土問題」というのは、遠い昔、教科書で習ったような微かな記憶があるだけで、私のこの40数年の生活の中には、一度として身近に感じるテーマではなかった。そのことを理由に友人に断ると、彼いわく、「『北方領土問題を知らない人や興味関心のない人を対象に、何を訴えたらいいか、どういう手段を用いたらいいか』が、今回のキャンペーンの最大目的。あなたのような無関心派のアイディアこそが、世論喚起の起爆剤になる」とおだてられ、またまた“お人よし”に乗じられるハメとなった。

いくら“無関心派”であったにせよ、アイディアを考える以上は多少の知識(情報)は必要である。依頼主から提供された資料のほかに、自分でもインターネットのくもの巣をさぐる。北方四島(歯舞・色丹・国後・択捉)は、日本固有の領土であることは歴史が証明するところだ。150年前、「日露修好条約」、太平洋戦争中「日露不可侵条約」が締結されていたにもかかわらず、戦争終結時(1945年8月)、旧ソ連軍の不法侵攻により旧島民(当時、約18,000人の日本人)は追い出され、今もなお不法占拠が続いていること、当時から居住してきたロシア人はすでに3世代になっていること、そして返還運動の歴史もまた60年に亘っていること、などを知るに至った。中でも、私の心を痛めたのは、だんだんと少なくなっていく旧島民(現在、約8,000人)の燃え滾るような望郷の念、それと、ロシア(旧ソ連)沿岸警備隊に拿捕され、サハリンに拘留された多くの漁民とその家族の悲惨さである。「古来、日本の領土である北方四島に不法侵攻し、国際法にも違反する不法占拠をしたあげく、旧島民の土地と生活権、漁民の生活権、ひいては人権、そして生命までも脅かす不当不法が許されていいものだろうか」と調べていくうちに、次第に私のナショナリズムが疼き出した。そんな私の性分を友人は見抜いていて、こんな無知な私に“相談”を持ちかけたとしたらいささか悔しいが、まあ、乗りかかった船、いち国民・市民的視点でいくつかのアイディアを考えることにした。

ところで私には、四島の顔がまったく見えない。顔を見るには「友好交流」という名の自由渡航が一番だと思う。北方領土問題対策協会という独立法人が主催して小規模の青年交流事業をやってはいるようだが、国民的には、その情報はあまり伝わってこない。先ごろ、『小泉首相が“北方領土視察”と銘打って船上から双眼鏡で島を見た』程度のニュースが流れたが、マスメディア自体の北方領土に関する報道は、極めて少ない。なぜか、ニュースのないところにニュースはないから。ならば、ニュースをつくればいいのでは、と思うのは余りにも大胆・無謀といわれるだろうか。島国日本の最北の島が北方領土(四島)なら、最南端の島は沖縄。沖縄も米国から返還された占領下経験を有する島である。ここで、元来「響き合い」という言葉が好きな私は、ふと考えた。日露の人的文化交流は『四島(しま)と島との響き合い』から始まる、と。「北方領土を返せ」と大声を張り上げてばかりいては、このあと60年経っても返還の実をあげることは難しいのではあるまいか。ならば、「相互の伝統文化(民謡・舞踊・民族衣装・手工芸・郷土料理)など民間レベルの交流を通して、日本の歴史、文化への理解を求め、友好的平和的返還への足がかりを模索する気長な運動が肝要ではないか」と、私は友人に告げた。後日、『四島(しま)と島との響き合い』そのままのタイトルで、中長期啓発活動のメイン・プログラムの一つに加えられたことを友人から知らされ、同時に感謝してもらった。しかし、その友人の私への感謝の思い以上に、私の四島への想いが熱くなったことことを、日本国民として、逆に友人にお礼を言いたい。

“きっかけ“とは不思議なもので、「北方領土問題」を機に、この頃「ロシア料理」や「ロシア民謡」などに興味をもつようになった。そういえば、くだんの友人から「君の顔はロシア系だよ」と云われている。ではその気になって、赤いサラファン(女性用伝統衣装の一つ)を身にまとい、ウオッカでも片手に、「カチューシャ」や「黒い瞳」を踊って歌ってみようかなっ・・・と呟く、さくらの独り言。
kukimi@ff.iij4u.or.jp

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

脇道の花とマイペースが遊ぶ

脇役でいてもレモンという個性

倍になる話に補聴器を外す

快飲快食医者に付き合いなどは無い

兎より亀長生きは僕の方

( ニュースやぶにらみ )

「東京震度4」
思わず椅子にしがみついた −新大臣

「国民栄誉賞辞退」
かっこいいでしょうを受賞 −イチロー選手

「橋本高知県知事辞任」
裏金疑惑ごときで弟は意気地ねえな −橋本竜太郎

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp
http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

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森田さんから

姑を看とる( 8 )
所用で東京へ行った帰り、ロサンゼルスで知り合った友人と鎌倉へ行った。
義母の介護から四ヶ月ぶりに解放され、浮き立つような三泊四日の最後の日である。鎌倉見物が終わったその足で兵庫で帰らねばならない。時間がない。
私と友人は 「古都かまくら観光バス」に乗り込んだ。
「これからまいりますのは建武の中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王がまつられている神社へ―――」
ガイド嬢が説明したあと、突然、歌いはじめた。
♪  青葉しげれる桜井の  里のあたりの夕まみれ「えっ、その唄!」と、私は叫んだ。
 
 東京へ発つ前夜のことである。太ももが痛いという義母の脚をさすっていると、「ああ、気持ちがいい。はじめてや、ああ、気持ちがいい。わたしはいつまでも生きていたい。神さんがな『お前は、もう一度元気になって働いてからでないと迎えにいかへん』と、いわはるんや」
義母はうっとりした表情でいった。すると、傍で聞いていた夫が大きな声を張り上げた。
「お母さん、ワシらはどうなるんじゃい。アメリカへ帰らず、ここで暮すのかい」
「そうやな、あんたらを早よう帰さんと純子ちゃんがかわいそうや、一人で留守番してるさかいな。死にとうないけど、死ななあかんかなぁ」
 義母は相変わらず、うっとりとした表情で「夫婦喧嘩せんように、身体にきいつけて暮しなよ。わたしの最後のお願いや」といった。
「ほかに言い残すことはないのかい?」
「えっ、ウンコかいな。わたしはどうして、こうウンコばっかり出るんやろうなぁ」
「ち・が・う。ユ・イ・ゴ・ン」
 母親の耳元で、夫はゆっくりといった。
「ああ、遺言かい? ――ない」
 義母は自分に都合が悪くなると、聞こえない耳になる。
「ありがとう。寝るわ」と、脚をさすってもらった礼をいいベッドへ上がっていった。そして「♪ 青葉しげれる桜井の 里のあたりの夕まみれ」と、歌いはじめたのである。
 大正元年生まれの義母が、尋常小学校六年生のころに習ったという歌である。四ヶ月前、危篤状態に陥った人だったとは思えないほどの張りのある声であった。

 帰ったら、お義母さんの歌っていた所へ行ってきましたよ。政治の実権を幕府から朝廷へ戻すべく、その先駆けになった護良親王だからこそ明治になって褒めたたえられ、歌われたのですね。お義母さんのお陰で一つ物知りになりました、といおう。
 そうそう、身体は拭いてもらっているかしら、パジャマは着替えているだろうか。 あれは一週間まえだった。義母の手を私の首の後で組ませて、ぐっとお尻を持ち上げたら両足で立てた。私はダンスをするような格好で「歩くわよ。
ワン・ツー・スリー」というと、義母は小さな声で「ひい・ふう・みい」と数え、これを毎日すれば歩けるようになるなぁと、喜んでいた。夫は、おまえの自己満足だよといったけれど、義母が喜ぶならいい。
 心の片隅に追いやっていた義母への想いが、蒼い空のように広がった。私は鎌倉見物をしたその足で新幹線に飛び乗った。その夜、夫とふたりで義母を抱え、グリーン色の入浴剤を入れた浴槽に入れると「ああ、ゴクラク、ゴクラク」と、恵比寿さんのような顔でいった。浴槽のなかにコロコロっとしたウンコを出して ――。                                                  つづく  
 
 森田のりえ  noriem@JoiMail.com

成岡流お酒の楽しみ方

SOM様!木曽福島の銘酒・七笑に行く 
                   
                                   吟醸酒蔵みゅーじあむ 館長 成岡 卓翁 
 10日目の8月12日に超激辛ラーメンを完食して満足したSOMさんを、11日目はみゅーじあむの東側に「丹波路」という丹波の鶏を色々と料理をして美味しく食べさせてくれる店に連れて行った。 だいぶ日本の空気にもなれた様子で、食事にも余裕が感じられるようになり、帰りしなには丹波路のご夫婦と笑顔の記念撮影。 
 12日目は、松本さんの車に、岡さん親子と同乗して、阿波踊り見物に出かけた。早朝に高槻を出て、第一の目的地である鳴門駅前の「すし辰」に向かって高速道路をひた走るが、阿波踊り見物の車に行く手を阻まれ、予定より30分も遅れてしまった。 
 以前は台風の最中に行ったので、比較的空いていたが、今日はいっぱいのため小部屋に入れられたものだから、窮屈極まりない。まさに美味しい物を食べるためには我慢である。タイでも日本食を食べた経験はあるSOMさんだが、最高級の寿司にどう感じたのか真意は掴めない。しかし、みんなには「美味しい!」と答えていた。 
  
タイ人も阿波踊りに圧倒? 
  
 過去に阿波踊り見物経験のある岡邦子さんの案内で徳島市入りした我々だが、何処に車を駐車してよいのか分からない。こんな時には地元出身の会員の登川さんに聞くのが一番と、携帯に電話をしてみると、昨日まで徳島に帰郷されていたようだ。1日違いで高槻に帰っておられたが、「JR徳島駅前の立体駐車場が便利ですよ」とのアドバイス。ついでに無料の見物ポイントも紹介してもらった。 
 車を駐車場に入れ、駅前の総合案内所で会場の地図や情報を仕入れ、すべり止めに午後8時からの有料桟敷のチケットを購入して、そごうデパートに向かう。 以前もそうだったようだが、沖縄の「えいさぁ」の踊りが演じられている。小さい子供や力強い青年の迫力ある踊りに、一同人垣越しに釘付けにされる。 
 その後、デパ地下で夕食を調達し、ひと休憩のあと、まずは無料の両国本町演舞場に向かったが、登川さんの情報では簡単に場所取りが出来るということだったが、金曜日と土曜日の違いで、空いている場所がない。桟敷の通路になっている所に無理やり年寄りだからと言って二人に座ってもらって、3人は小さな交差点の隅で立ち見を余儀なくされた。 
 さて、6時半には交通も遮断され、遠くから太鼓の音が聞こえ始める。初めて直接見る阿波踊りに胸がときめく。各連が紹介され目の前を通過して行く。なるほどこの暑さでこれだけの踊りを続けるには相当な練習と体力維持が必要であることはわかる。男踊りと女踊りではそれぞれポイントが違うようだが、女踊りの艶めかしさに圧倒される。(後日談だが、お客さんと話をしていたら、「こんだけの美人がいるんだから、日中も溢れているだろうと翌日町を徘徊したが、見当たらなくてガッカリした」と仰って大笑いになった。) 
 上手な連もあれば、にわか連のように「踊らなそんそん」組まであり、中には先ほどの沖縄えいさぁまで色々通過して、次第に我々も乗ってきた。このままここに残るかそれともチケットを買った南内町演舞場に移るか思案したが、早い目に行って席を取ったれ良いところで見られるやろと移動する。川側の席で比較的早くたどり着いたので前列の方を確保し、今度は余裕で観覧。同じ連もあったが、入口から我々の席までの流れが見られるので大満足。 
 SOMさんも満足していたが、自由な場所で見たいと、会場を1人で動き回っていた。 
  
手打ち蕎麦に挑戦? 
  
 お客様で、京都太鼓センターの東さんがおられ、“みゅーじあむ”を支える勝手連みたいな会を作って、月一ペースで集って下さっている。その彼が、実家の木曽福島のリゾート開発された中古物件をこの春購入されていた。そして、7月に「みんなにお披露目の会」の案内メールを配信された。 
 日程がちょうどSOMさんが来日している期間だったので「来日の不安」はあったが「参加します」と返メールしておいた日が15日目の17日。 
 結果、人数はそう沢山集まらず、5名で一泊することになった。高槻からJRで木曽福島を往復すると4万円はかかる。ここでも松本さんの好意で、カローラを借りられることになり、SOMさんと二人で早朝高槻を出発したのだが。 
 名神高速道路から中央道を順調に走り、一般道もさほど心配するほど混んでいなかったので、正午に予定通りJR木曽福島駅前に到着。ところが東さんの携帯電話に繋がらない。仕方なく実家に電話をすると、お母さんが電話に出られ「京都に帰りましたよ」とビックリさせられる。念のため別荘の電話番号を聞いて電話を掛けると居られホッとする。「昼食はどうされますか?」と言われるので「確か駅前に美味しいそば屋さんがあると聞いたのですが」と言うと、「それはくるまやですね。そしたら食事が終わられる時分に迎えに行きます」ということになり、目的のそば屋さんに向かったが、駐車場が見当たらない。やむなくジャスコの駐車場に車を止めて店の前へ行くと、さすが人気の店だけあって既に順番待ちの人が店の前の床机に座っている。 
 ようやく席に着き、何を注文するか思案したが、結局私はざるそばで、SOMさんは暖かい玉子かけそば。たぶん初めて「手打ち生そば」体験だと思うが、美味しそうに食べている。七味を「もっと振り掛けては」と勧めると、これで十分と日本人並の量に押さえている。わずか10日余りの滞在で「郷に入っては郷に従え」という心境になったのかと驚かされた。 
  
効き酒初体験 
  
 ちょうど頃合いに東さんが迎えに来て下さり、ジャスコで夜の食材を調達して別荘に案内される。雨あしが強くなる中、結構山の中に入って行く。ようやくたどり着いて道端に車を止めて坂を上がった所に、木造のコテージ風の建物があり、ここが東さんの別荘。 
 そこには先客の山本さんが居て出迎えてくれた。建物内部は購入後手を入れられたようだが、快適そうな空間が作られて、CDウォークマンがスピーカーを通して良い音を出している。 
 購入金額を聞くと「メチャ安」という感じはするが、今の私には高嶺の花。増してアクセスを考えるととんでも無い物件に見える。途中見かけた「木曽福島の銘酒・七笑」の話をすると、東さんは早速藏元に電話を入れ、突然の蔵見学を頼んでくれた。 
 もちろん今の時期は醸造してないのは分かっているが、めったにないチャンスだし、SOMさんにとっても又とない経験だろう。 
 山本さんとSOMさんは、すぐにうち解けて旧知の間柄のように、楽しく話し合っている。しばらく邸内を案内してもらったりした後、列車で福島入りする高島さんを東さんのスバル・レガシーに乗って迎えに下りた。 
列車はやや遅れて到着し、元気そうに改札口を出てきた高島さんは、アメリカ生活が長かったので、SOMさんとは流暢な英語でコミュニケーションを取っている。 
 早速七笑酒造鰍ノ蔵見学に向かう。挨拶もそこそこに、製造部の久保年男さんに蔵の中を順次工程に沿って案内してもらう。年間一升瓶換算で80万本を醸造する七笑は設備も大きく、長野県では上位の生産量を誇る。しかし、アルコール不況の中では厳しい経営を余儀なくされているようで、色々生き残りをかけての、工夫と努力をされている様子がうかがえる。終わりはお決まりの?き酒で、我々を楽しませていただいた。8種類のお酒の味の違いをどう判別出来たの疑問だが、SOMさんは山本さんと楽しく飲んでいた。越後流杜氏柳沢久さんは、45年を越えるキャリア持つ超ベテラン。杜氏の人柄をうかがい知る美酒は、案内役の久保さんからも漂い、七笑の名に相応しい楽しいお酒の数々であった。(因みにみゅーじあむには大吟醸しかありません) 
 ちょっと良い気分になった我々は、このまま別荘に帰るのはもったいないと、道中にある入浴だけでもOKの温泉旅館に疲れを癒しに立ち寄った。露天風呂には笠をかぶって入浴。大阪とはさすがに高度が違うし、雨の影響もあって肌寒いので、ゆっくり体を温めリラックスして満喫。SOMさんは初体験の温泉はどう感じたのかは聞かなかった。 
 別荘に帰って我々は、手分けして料理を作ったり、テーブルをセッティングして、アマゴの塩焼き、手作り餃子など盛りだくさんの料理と、高島さんが富山から持ってこられたお酒や、私が大阪から持って行ったお酒に、七笑で調達したお酒などを、時の過ぎるのを忘れて至福の夜を楽しんだ。 
  
日本一の山を間近に?! 
  
 翌朝は、京都方面に帰る組と別れ、SOMさんと私は安曇野に車を走らせた。安曇野山岳美術館へ立ち寄り、近くの天満沢で信州手打ちそばを賞味。大きなざるに盛られたそばは圧巻。 その後、大王山葵園に行って、園内を見学したSOMさんは、えらく道祖神に興味を示し、そのミニチュアのレプリカを土産に持って帰りたいと言いだし、園内や近くの神社や土産物屋に探しに行くも、お気に入りの品はなく残念がっていた。 
 その後中央道に乗り一路河口湖に向かってひた走る。河口湖のICまであとわずかというところで道路情報は10qの渋滞を表示。コレはいけませんと、急遽一宮御坂で高速道を降りて一般道で河口湖畔を目指す。辛うじて5時前に駅前の案内所にたどり着いてその日の宿を紹介してもらう。幾つか当たって貰った結果、河口湖を背にした「フジ-ビューホテル」の五階の部屋を確保。実に裏富士を真っ正面に見える良いところで、遠くまで走ってきた甲斐があった。 
 翌日は、富士山の五合目まで車で登り、冬はスキー場のゲレンデになる所が一面リリー畑になっているところを登りはリフトに乗り一周。 
 余裕のつもりが、いざ高槻に帰るべくカーナビを設定すると、松本邸到着予想時刻が午後六時を示している。中央道に入りアクセルをふかし、昼食はサービスエリアでおにぎりを買い込んで、必死で走り続けいつものようにみゅーじあむに滑り込んだのは五時五分。 
 18日目の20日の昼は、酒肴料理「たま絵」でパートをされている島田礼子さん宅におよばれの日。器用な島田さんの手料理に満足のSOMさん。 
 20日目は、スナック「京雅」、「たま絵」、「みゅーじあむ」のお客さん達で組織しているソフトチーム、その名も「ドランカーズ」の練習試合にSOMさんも参加。 
 夜はみゅーじあむで「ファイナル・パーティー」を開いてもらい、この間お世話になった人たちと、大変盛り上がっていた。 
 翌日8月23日(月)SOMさんは、長かったような短い3週間の日本滞在を終え、無事正午前のタイ航空の便で帰国していった。

編集後記

台風22号も大きな傷跡を残したようです。みなさんは大丈夫でしたでしょうか?
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http://www.ne.jp/asahi/zakkaya/weekly/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.439

雑貨屋 店主 大西良衛   zakkaya@news.email.ne.jp