No.431            Ryo Onishi                   8/15/2004   

 

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雑貨屋のひとり言

ついにアテネオリンピックが始まりました。期待どおり、柔道の谷選手、野村選手の金メダルの獲得、見事でしたね。日本人選手・チームの活躍が期待されます。工事の遅れやテロ対策のものものしい警備など、いろいろ話題の多いアテネオリンピックですが、すばらしい趣向の開会式で始まりました。DVDレコーダーに録画し、鮮明画像で観ています。(R.O.) 

善玉ストレス、悪玉ストレス 

5月2日号の当「雑貨屋ウイークリー(416号)」で、われらがアイドル、さくらさんが、その文「さくらの独り言、五月病・・スパイス」でストレスについてお書きになっていましたが、現代はストレス過多の時代といわれます。

とかくストレスと言うと、それはわれわれ人類の敵であり、いかにストレスを和らげ、解消するかのみが論じられがちです。珍病・難病の原因ともされるストレスは、たしかに現代疫病神の代表格であり、やっかいです。

しかし、考えてみればこの地上の生物にとって生きることはそれだけでストレスであり、ストレスに囲まれて生きているのがわれわれではないでしょうか。

ストレスには快ストレスと不快ストレスがあり、私はこれを「善玉ストレス」、「悪玉ストレス」と勝手に名付けています。

若さあふれる青春時代、何にでも果敢に挑戦し、心ときめく思いで前進する興奮は、まさに「善玉ストレス」です。

こんな人がシニア世代を迎え「やすらぎ」という名の安定を得ても、必ずしも心が晴れない場合が多いのはストレス不足だからなのではないでしょうか。

この春、ロサンゼルスで開催された詩画家の大野勝彦さん(熊本県出身・在住)の講演会に出席しました。

自宅の庭でトラクターの清掃中に機械にはさまれ、両手を切断するというたいへんな事故に遭遇したにもかかわらず、義手で水墨画風の絵を画く大野さんの講演は、ご自身の体験をいかに前向きに変換するかという積極的発想がベースになっており、まさに「悪玉ストレス」の「善玉」への転換であり感動的でした。

大野さんは講演のなかで「今では失ったものより、それによって得たものの方がもっと大きい」とも、また「不可能と思えば、なにも出来ない。出来ると想う心が何事も可能にする」とも語り、私の胸に重く響きました。

不幸・不運を嘆けば悪玉です。「災い転じて福となす」ことは並大抵なことではありません。大野さんだから出来たことかも知れませんが、彼の話からは学ぶところが大くありました。

「ストレスのない生活は味気ない。ストレスは人生のスパイスだ」(前記、「さくらの独り言、五月病・・スパイス」より引用」とはまさに卓見です。

悪玉は良くないですが、ストレスのすべてを敵とせず、積極的に善玉を見つけて味方に付け、前向きな人生を歩めたらどんなに良いでことしょう。                           河合将介( skawai@earthlink.net )

さくらの独り言「オリーブの実」

 日本ではお盆の迎え火の日に、ギリシャでは108年ぶりに里帰りした聖火が、202の国・地域から集まった15,000人の選手団と70,000人の大観衆で埋め尽くされたメイン・スタジアムの夜空に明々と燈された。アテネオリンピックの開幕である。第二日目となる翌日、東京ではメダル獲得の前祝いかのように、大小15000発の火の華が空と海に咲いた(東京大華火大会)。柔道の谷亮子選手と野村忠宏選手が日本選手団の先陣を切って日の丸を掲げたのは、それから数時間後のこと。表彰台の勝者の笑顔もさることながら、月桂樹の葉の冠がいかにもギリシャにふさわしく、古代オリンピックへいざなってくれる。このアテネ五輪を飾るマラソン男子優勝者には、「世界最古」といわれるオリーブの木の枝で作った冠が贈られることになっているというから、これまた楽しみだ。

 古代オリンピック(競技祭)で、勝者の頭上はオリーブの若枝で編んだ冠で飾られたことは有名だ。栄誉をかけて戦った勝者は、金品ではなくオリーブの冠だけを求め、そして得たのだ。それは古代ギリシャ人にとってオリーブの若枝が神聖なる捧げものであったから。それらの冠はクレタ島で作られていた。今回のマラソン男子優勝者にはそのクレタ島西部コリンバリの最古のオリーブの木から、女子優勝者には同じクレタ島東部のイエラペトラにある古いオリーブの木から、その枝で作られた冠がそれぞれ贈られる。まさに、過去と未来の歴史で編まれた冠だと思う。

 ところで、オリンピックといえば、筑波大学の通年講座のひとつに「オリンピックの帰還」がある。この講義の目的は、オリンピックを競技面ばかりではなく、歴史、芸術、教育など多様な文化的側面から理解することだという。先日、この受講生201人が受験したテストの問題の抜粋(解答と正解率も含む)がオリンピック・ムーブメント研究室のWeb上で公開されていたので、ここに紹介する。あなたはどれくらい答えられるかな、と・・・
(1)古代オリンピックで勝者に授与された賞は何の葉冠?
    @オリーブ、A月桂樹、Bパセリ、C松      (正解@ 正解率71.6%)
(2)今日にも受け継がれている「エケケイリア」の日本語名は?
    @選手宣誓、A開会宣言、B聖火リレー、C聖なる休戦  (正解C 86.5%%)
(3)今夏のアテネ大会でオリンピアの競技場で行われる種目は?
    @走り幅跳び、A砲丸投げ、B円盤投げ、C短距離走   (正解A 46.3%)
(4)今回の聖火リレー、東京の次はどこの都市に行った?
    @北京、Aシドニー、Bソウル、Cメルボルン   (正解B 54.7%)
(5)次のうち、オリンピック種目になったことがあるものは?
    @ パン食い競走、A綱引き、B大玉送り、C借り物競走 (正解A 92.5%)
(6)初めて女性の参加が認められた大会は?
    @ 代オリンピックから、A1896年第1回アテネ大会、B1900年パリ大会、
    C1904年セントルイス大会 (正解B 74.1%) 
(7)次の中で女子のオリンピック種目ではないものは?
    @ ボクシング、Aレスリング、Bフェンシング、Cトライアスロン(正解@94.0%)
(8)次のうち、開催が中止されていない大会は?
    @ 1980年モスクワ大会、A1944年ロンドン大会、B1940年東京大会、
    C 1916年ベルリン大会                 (正解@ 60.2%)
(9)現在のパラリンピックの“パラ”とは何に由来しているか?
    @パラソル、Aパラプレジア、Bパラシュート、Cパラレル (正解C 40.3%)
(10)オリンピックの「芸術競技」でメダルを獲得した日本人は?
    @ 鈴木朱雀、A東山魁夷、B棟方志功、C平山郁夫   (正解@ 24.9%)
(11)クーベルタンがオリンピックを通して目指したものは?
    @ 勝利至上主義の強調、A商業主義の推進、Bアマチュアリズムの確立、
    C スポーツの教育効果による社会変革  (正解C 91.5%)
(12)古代オリンピックでは女性は出場できなかったが、優勝者名簿に載っている女性の種目は?
    @戦車競走、A競走、B芸術競技、C舞踊 (正解@ 35.8%)

 オリーブは、ギリシャ人にとって必需品だ。食用のみならず、神聖なる個と神の証でもある。オリンピック発祥の地における開催を機に、その源流に触れ、オリーブの実でもかじりながら神の話に心を傾けるのもいいかもしれない。世界最古のオリーブの木枝で編まれた冠が捧げられる最終日まで・・・とつぶやくさくらの独り言。
kukimi@ff.iij4u.or.jp

川柳 & コント(東京・成近)

( 川 柳 )

盆供養 いつしか父母の齢を越え

もったいない死語に八月十五日

レジャー レジャー レジャー八月十五日

昭和一桁 我が青春に飢えがあり

戦争と平和 昭和を駆けた足

( ニュースやぶにらみ )

「不評人名漢字大幅削除」
「純」の字が心配だ −某首相

「日朝実務者協議」
北鮮が善処しますと言ってくれた −日本側代表

「テロの心配」
最後まで繋がっていてくれますように −五つの輪

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp
http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

山の向こう( 2 ) 

 小学生のころだった。
 顔半分がケロイドで引きつり唇の歪んだおばさんが、我が家をたびたび訪れていた。そのおばさんは、いつも怖い話をした。私は母親の後ろで隠れるようにして聞いていた。人々は、ことあるごとに原子爆弾投下の八月六日のことを口にした。学校から広島市内見学といえば決まって気味悪いものが並んでいる博物館へ連れていかれる。見たくなかった。見ないように避けて通った。おそらく、これらは原爆に関する展示品であったのだろう。
 しかし、原爆の悲惨なようすを見られようになったのは、原爆資料館や慰霊碑ができ、爆心地に焼け残った産業奨励館が「原爆ドーム」として記念物になり、平和公園が緑でおおわれ市民の憩いの場所となってからである。
 原爆資料館にはじめて足を踏み入れたのが高校一年。当時のことをふり返ると、核の問題とか平和について無関心であった。社会の時間にとりあげられることもなかったような気がする。あるいは、あまりにも悲惨な体験を幼いころから訊かされすぎ、感動が麻痺していたのかもしれな。二回目に原爆資料館を訪れたのは、社会人として県庁に勤めていたころだった。東京都庁から出張してきた女性職員を案内した時である。
 つぶれた一升瓶、焼け焦げた学生服、モンペに防空頭巾の女性、焼け爛れた皮膚がスダレのようにぶら下がっている人体模型。焦土と化した瓦礫の中で泣き叫ぶ子供たち、そのうめき声が立ちあがってきそうな写真の数々。居たたまれなかった。子供のころ思ったと同じように見たくなかった。できることなら足早に通り過ぎたい衝動にかられた。知識として知ることはたやすい。しかし、彼らの受けた苦しみや悲しみを感じることはできない。そう思うと、胸が痛くなった。
 毎年、八月六日朝八時一五分。
 広島市内のサイレンが一斉に唸りはじめる。働く人は手を休め、歩く人は立ち止まり、爆心地に向って黙祷を捧げた。父や母、きょうだい、友人、原爆で亡くなった人たちを偲び、人々はさまざまな思いをこめて、一分間だけ仏の心になる。それが過ぎると、なにごともなかったように現実の世界へと散っていく。
 歳をとるにしたがい、一瞬のうちに殺戮された人々が地下に眠っていることも、一九四五年八月六日朝八時一五分、なにが起きたかも心の片隅に追いやり、日々の雑事に煩わされながら暮らしている。
 いま故郷の山は切り崩され、市内のベッド・タウンに変わってしまった。実家から眺めた美しい風景も、新しい家々が前に立ちはだかってしまった。笹舟を流して遊んだ小川も夏休みに泳いだ川の淵など、みんな消えた。
 故郷をはなれた者は、年々、自分の生まれ育った風土や血の絆が恋しくなる。そこがどんなに変わろうとも、そこだけは清浄な空気が流れ、父や母、きょうだいや友人の面影を偲ばせてくれる場所として心のなかに刻みこまれている。
 こんど故郷に帰る機会があれば、山の向こうが真っ赤に染まった日、身内や友人たちは何をしていたのか、何を考えたか聞きたい。そして、アメリカで生まれ育った娘やヨーロッパからきた娘の連れ合いとぜひ原爆資料館を訪れたい。
 戦後五十四年、地域的な小競り合いはあるにせよ、我々は平和を享受してきたことは紛れもない事実である。その平和の「スケープ・ゴード」になった広島や長崎の人たちの悲痛なうめき声を忘れてはならないと、私は、自分に言い聞かせている。
                                                           おわり
 森田のりえ  noriem@JoiMail.com

編集後記

 ながーい休みが、あっという間におわりました。月曜日のゴルフでちょっと腰を痛め、計画が狂ってしまいました。家に居るのも暑くて大変でした。
 オリックスの本拠地、ヤフーBBスタジアムに行き、日本ハム戦を観戦しました。近鉄、オリックスの合併問題のせいなのかどうかわかりませんが、結構、観客が入っていました。でも甲子園とは対照的な雰囲気(静か)で、まるでアメリカのスタジアムみたいでした。
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Zakkaya Weekly No.431

雑貨屋 店主 大西良衛   zakkaya@news.email.ne.jp