Zakkaya Weekly No.427
Ryo Onishi 7/18/2004
雑貨屋のひとり言 さくらの独り言 川 柳 & コント バックナンバー 成岡流お酒の楽しみ方 河合さんの・・・ 森田さんの・・・ 健康のお話 雑貨屋ホーム アメリカで爆発的に売れている、アップル社のデジタルミュージックプレーヤー、『iPod』が日本でも販売されます。千曲から1万曲のミュージックを持ち運んで楽しめるのが魅力で、日本でもかなり売れると思います。私は4年前からスティックメモリーに音楽を入れて通勤時に聴いていますがせいぜい数十曲です。近々、息子がこのiPodを入手すると思うので、研究させてもらいたいと思います。
(R.O.)
150年前の日本開国(その7) ――― 吉田松陰の密航が受け入れられていたら・・
私は子どもの頃、歴史ものゝ漫画絵本で、日本の沖合いに停泊する黒船艦隊に向って二人の若者がボートで漕ぎより「私たちをアメリカへ連れて行ってくださ〜〜い!」と叫び懇願する物語りシーンがあったのを覚えています。それが私にとって吉田松陰という名前を最初に知った時だったと思います。
吉田松陰と金子重輔の二人がペリー艦隊に接触し、海外密航を企てた話は有名ですが、ペリーの『日本遠征記』(アメリカ艦隊シナ近海および日本遠征記)にその経緯が記されていたことを私は今回知りました。
在ニューヨーク日本国総領事館編、日米150年史「ペリー提督の日本遠征関連逸話集」に記載されている内容を参考に以下要約してみました。
ペリー提督は名も知らぬ(その上、二人は偽名を使っていた)日本の若者二人をたいへん高く評価していたことがわかります。
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ペリー艦隊乗組員の一団が下田の郊外を歩いていると、二人の日本人が近き、士官の一人に畳んだ紙に書いた手紙を渡し、急いで立ち去ります。この二人こそ吉田松陰と金子重輔なのでした。
この手紙の内容を船に戻ってから翻訳してみると、概略次のような内容でした。
『自分たちは江戸の学者である。自分たちの学識は乏しいが、様々な書物を読み、噂により欧米の習慣と教育とを多少知っており、長年の間、五大陸を周遊したいと望んでいたが、外国との交流を禁ずる法律のためこのような希望は叶えられていない。・・艦隊が出航する際には、我々もいっしょに連れて行って欲しい・・。もし、あなたが私たちの願いを検討してくれるならば感謝を忘れない・・』
手紙を受け取った翌夜中、二人はボートで米艦隊に漕ぎ寄せてきました。士官から報告を聞いたペリー提督は通訳を派遣し、彼らの意図をただします。
二人は率直に、自分たちの目的は合衆国に連れて行って欲しいということ、世界を旅行し見聞をしたいということだと打ち明けます。二人は教養ある人物で、漢文を流暢に書き、その態度も丁重で極めて洗練されていました。
提督は彼らの来艦の目的を知ると、自分は日本人を合衆国に連れて行きたいと切に思うが、それは出来ないことであり残念であると答え、二人の願いは叶わなかったのでした。
この出来事について『ペリー日本遠征記』には次の通りの記述があるようです。
『この事件は、日本の厳重な法律を破り、知識を得るために命を賭けた二人の教養ある日本人の烈しい知識欲を示すもので、興味深いことであった。・・日本人は疑いなく研究好きな国民で、彼らの道徳的、知的能力を増大させる機会は、これを喜んで迎えるのが常である。この不幸な二人の行動は、日本人の特質より出たものであったと信じる。国民の抱いている烈しい好奇心をこれ以上によく示すものはない。日本人の志向がこのようなものであるとすれば、この興味ある国の前途は何と実のあるものであるか、その前途は何と有望であることか・・。』
ペリーが二人の密航を拒絶したのは状況からしてやむをえない判断だったと思いますが、この時、もし吉田松陰と金子重輔の二人の意図が認められ、海外見聞が成功していたら、その後の日本は変わっていたかもしれません。
歴史にイフ(If)があったら・・、想像するだけで興味はつきません。
(参考資料:在ニューヨーク日本国総領事館編、日米150年史「ペリー提督の日本遠征関連逸話集」) 河合将介(skawai@earthlink.net )
さくらの独り言「獅子の手習い・・・〜いつからだって〜」
44歳の誕生日を迎えた今年4月に、6年後50歳になった時の自分自身や仕事についてイメージしてみた。どんな自分でありたいかとか、何をやっていたいか等について焦点をあて、具体的に自問しながら絵を描いた。すると、まるで大学入試に挑戦した頃の気分になって、「何かを始めてみたい、自分が**になった時のために・・・」という衝動にかられるのだ。44歳になってという人生の折り返し地点、今さら何か新しいことを始めるというときっと笑われるかもしれないが、最初の一歩はいつからだって始められるとまずは信じ、やってみたいのだ。そしてこれを、獅子(44)の手習いと呼んでみたいさくらなのだ。
情報化社会の著しい発展に伴い、私達の生活様式やツールが変った。仕事や遊びのスタイルやプロセスにも大きな影響や変化が起きた。PCとソフトウエアーの環境さえあれば、仕事も遊びも可能な時代となった。二人以上のメンバーによって競技するゲームだったものが、いつだってどこだってたった独りだけでも楽しめるコンピューターゲームもそのひとつであり、そのソフトの量や種類や質は日々更新している。なかでも注目すべきは、将棋のコンピューターゲームソフトウエアー。その開発は非常に困難で、それは世界中で注目されるほどのものであるという。これは、多くのゲームが何かを「奪い取る」ことで勝負が決定するのに加え、「奪い取ったもの(駒)を再活用する」ことにあるという。つまり、どんなに優秀なコンピュータープログラマーが作るソフトウエアーでも、変化への対応における人間の知恵(この場合は将棋の深み)には勝れないということだ。こうなると、「将棋」というものを極めなくても、少なからず好奇心がくすぐられる。
さて、九州の典型的な男尊女卑文化の家庭で生まれ育った女性の私にとってこの将棋とは、男の光景そのもの、つまり男の遊び・ゲームであって、私には縁も興味も全くないものだった。息子に将棋を教えていた父がいつしか息子に玉を奪い取られていく姿、偉大なる経営者達がパートナー達と将棋を差す様子、それは女性の私を同居させるには程遠い世界・風景だった。しかし前述したに様に、奪い取るだけでなく奪い取ったものを再度利用するという点からも「将棋」には、ビジネスマネジメントに必要な経営資源とその最適化の法則の真髄があるように思え始めたのだ。陣地と駒のルールと特性・種類を、企業経営とその環境の縮図だと見る。それは競業他社と人材(財)やサービスそのものであり、どんな業界でも勝ち残るため、数手先の戦局を読んだ攻防戦略と戦術の集約、知識と理性を卓抜した感覚・感性で展開されるゲームではないかと。そんな縮図を眺めると、まるで旅行前に地図を広げて様々なことを創造・展開するこどものように、興奮を覚えさせられるのである。その瞬間、将棋の深さを垣間見る自分、無縁・無関心ではなくなってしまう女性の自分に気づかされるのである。
50歳になった時の自分がどんな自分でありたいか、どんなことをしていたいか、と考えたら、「何かをやめる」ではなく、「何かを始める」ということだった。それは限定した何かであったり、限定しない何かへ自由に挑むことであったりもある。その中には、スキル習得やそのアップなるものとしての経営学の学びや執筆技法の練習もあるし、日本文化の探求や思考潤滑としての旅行や遊びへの研究もある。今からだと遅すぎだという言い訳で自分をごまかさず、身心の健康のためにゴルフ、遊びのためには将棋に挑戦してみようと思っている。男文化に身を置く様でなんとなく躊躇したものだったが、聞くところ、今や将棋を楽しむ女性も多いという。だったら、もう躊躇は不要。これこそ獅子の手習いと遠吠えをあげながら始めてみよう・・・っと呟くさくらの独り言
(kukimi@ff.iij4u.or.jp)
川 柳 & コント(東京・成近)
( 川 柳 )
怖いもの知らず 風船飛ぶ構え
ハッピーエンドにはまだ遠い三コマ目
破れ傘同士 労りあって生き
流れ弾 日々好日に飛んでくる
一見平和に仕掛けられてる盗聴器
( ニュースやぶにらみ )
「当歳馬に4億9千万円」
心配だなあ −ハルウララ
「小泉首相死に体?」
いや、もう一番大丈夫です −朝青龍
「収支報告を訂正」
一億円の収歯報告をしぶしぶ −橋本派
(東京・成近) E-mail nakawai@adachi.ne.jp
http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm
連載短編小説 花惑い(9)
「着替えは持ったの、もう帰って来られないかもしれないわよ」
マルセデス・ベンツに乗り込もうとする浩二に、道代は、後ろから斬りつけるようにいった。この言葉の持つ意味に気付いて欲しい、いまなら間に合うと祈る思いだった。しかし、浩二は、
「あ、徐々に運ぶよ」
と、いったきりだった。
「すまない、許してくれ」ともいわない。浩二の背中は、おまえが由香のところへ行かせるように仕向けた、とでも言い出しそうであった。しだいに遠ざかる車を見届けた道代は、家に入ると受話器を取り上げた。もう道代に迷いはなかった。イストレニング・オーダーのゴー・サインを出すために弁護士事務所の番号を押した。
レストレニング・オーダーとは、離婚騒動によって起こる暴力行為からお互いを守るために、家から一定の距離内には近づいてはならない、一時的に両者を離す法的命令である。
浩二は、道代から免罪符でももらったかのように堂々と、
「今日から由香のところへ行く」
と、出かけてしまったのだ。何も持たずに。妻への最大の裏切り行為とは思っていないのが道代には歯がゆくてならなかった。
道代は、受話器を置くと、暮色に沈んでゆく庭木を茫然と眺めていた。
いまごろ浩二は、手渡しによるレストレニング・オーダーの書類を渡され驚いているに違いない。でも、道代には他に方法がなかった。ああするしか、仕事や自分とジュンを守る方法はなかったのだと、机に頬づえをついて道代はぼんやり考えていた。しかし、レストレニング・オーダーまでかけなければならなくなった関係が、やりきりなかった。
と、けたたましく電話が鳴った。浩二だ、と直感的に思った。
「なんだ! おまえ、話せばわかるだろう」
だから、夕べ話し合ったでしょ、とはいわずに、
「帰ってきたら、ポリスを呼びますよ」
とはいったが、妻の気持ちなど考えていない浩二のことだ。帰ってくるに違いないと思ったら、案の定、聴きなれたエンジン音が聞こえてきた。道代はためらいもなくポリス・ステーションのダイヤルを回した。
話せば済むことじゃあないか、といいなから浩二が家の中に入ってきた。まずい。受話器を握っている道代を見ると、浩二は電話線を力いっぱい引っ張って引き抜いてしまった。家の中で争いになったら道代の負けだ。それに、現金を持ち出させては敵に軍資金を与えるようなものだ。浩二には裸一貫で出てもらうという、道代の計画が崩れる。咄嗟に道代は、外へ飛び出した。と、浩二が後を追ってきた。しめた、と道代は思った。
その時、赤ランプを点滅させながらポリス・カーがきた。次から次とポリス・カーが四台もきて止まった。夕食時の騒々しさに近所の人たちが外へ出てきた。
車からポリスが降りてきた。道代は、浩二にレストレニング・オーダーを出したことをポリスに告げると、ドライブウエィに立ちすくんでいる浩二が手にしている書類を取り上げた。ポリスは浩二を後ろ手にするとポリス・カーに押し込んでしまった。走り去る後部座席から振り返る浩二の驚愕と怒りにみちた顔が見えた。
道代は虚しい悲しさに襲われた。悲しさは頬を伝う涙になり、嗚咽に変わった。人が見ている恥ずかしさも忘れて、背をふるわせて号泣していた。
「ダイジョウブ? ワタシノイエニキマセンカ」
前の家のペギーが道代の背がをさすりながら、いった。
「ありがとう。心配しないで、大丈夫だから」
道代は咽びなから、答えた。
ふと、道代は玄関を見ると、ガラスの向こうにジュンの顔がちらりと見えた。
ごめん。こんなことになるとは……。許して。
道代は心のなかでジュンに謝り続けた。娘の心に消すことのできない傷を刻み込んでしまったと思うと、あとから、あとから、涙がしたたり落ちた。
さまざまな思いが道代の頭をよぎった。いつのまにか椅子に仰けになって寝てしまっていた。目覚めて窓の外を見ると、稜線に沿って真っ赤な朝焼けが見えた。闇夜を溶かすように、オレンジ色から黄金色へと色彩を変えながら、白々と夜が明けていく。小鳥がさえずりはじめた。車のエンジン音が聞こえた。一台、二台としだいに車の音が多くなる。放心したように道代は書斎の窓から外を眺めていた。と、家の前に車が止まった。誰だろう、こんな時刻に、と思っていると車の中から由香が降り立った。 つづく森田のりえ (noriem@JoiMail.com)
成岡流お酒の楽しみ方
全国杜氏サミットと鑑評会
吟醸酒蔵みゅーじあむ 成岡 卓翁
4月号で「能登の酒匠百年祭に行こう!」と呼びかけ、6月21日から二泊三日で参加した。
メンバーは、銘酒ファンの常連さん達と私の計9名が、車4台に分乗して石川県珠洲市に向かった。
本番は22日(土)のため21日早朝出発した2台は、余裕で高速道を金沢に向かったが、リフレッシュ工事のために渋滞していたところに車が突っ込んだ事故のため、2時間もロスして金沢に着くことになってしまった。(直前の事故なので巻き込まれなかっただけ不幸中の幸いか)
美味しい手打ち蕎麦を食べて、一路宿泊先の「のときんぷら」をめざす。途中金沢市のはずれの酒屋で夜の酒宴用のお酒を買い込み、「道の駅」にもなった能登空港を見学し宿舎へ。荷を解いた後、私と井手さんは、名杜氏波瀬正吉さんと宗玄の坂口幸夫杜氏のお宅を表敬訪問。能登杜氏組合副組合長の波瀬さんは不在だったが、坂口さんは丁度帰宅されたところにお邪魔したので、全国新酒鑑評会の結果と能登杜氏自醸清酒品評会の結果をダイジェストで教えていただいた。明日に控えた大イベント前に、食事にお誘いする訳にもいかず、早々失礼して、みんなが待つのときんぷらに戻り、「炉端」での夕食と二次会で盛り上がったのはいつものパターン。
まずは22日に開催された「全国杜氏サミット」の話から始めます。
世界の人々に認められる酒
会場の珠洲商工会議所大ホールには、見覚えのある杜氏さんらが多数おられ、私は福井県の挙部酒造場の南部隆保社長、吟醸酒研究機構の松崎晴雄さんと一言二言あいさつを交わし、草間さんと二人着席した。
司会は能登杜氏組合事務局長の橋野藤子さん。コーディネーターの日本酒造組合中央会技術担当理事は「杜氏……この言葉は、日本の文化と技を感じさせます。数百年の長い歴史と伝統に育まれ培われてきた技が生み出す日本酒、絶妙の色・香り・味は、我が国の風土に根ざした生活文化の粋と言えます。しかし、国酒と言われる清酒が、全酒類の一割も占めない現状は一刻の猶予もならないところにきています。日本酒の復権はいかにしてなされるか、杜氏の技がどのように関わっていけるのかをディスカッションしていきたいと思います」と述べ、順次自己紹介を兼ねて杜氏さんが自分の経験を語っていった。
新潟県酒造従業員組合連合会の会長は「昭和23年に酒造りのかけ出しとして関わり、38年間杜氏をやっている。昭和42年には1,000名の杜氏と6,000名の蔵人、計7,000名で連合会が発足したが、今はその一〇分の一程度に減っている」と40年足らずで激減した組織の現状を報告。広島杜氏組合組合長は「先人の努力で広島杜氏は軟水仕込みの名手と自負しています」と自らの技を誇った。また南部杜氏協会会長は「能登杜氏組合から遅れてスタートしたが、93回の講習会、86回の鑑評会を重ね、法人格も取り、酒造大学を開催し杜氏試験を実施して、着実に実績を積んできた」ことに自信を深めていた。そして、能登杜氏組合天保正一組合長は「百三年前に組合が結成され、品評会は今年で百回目。420名の組織を有し13府県で酒造りに励んでいるが、後継者育成が課題であり、そのためにいろいろ努力している」と将来の酒造りを念頭において、若き蔵人養成の必要性を語った。
能登杜氏組合常任顧問で前組合長の農口尚彦杜氏は「合理化という名の、安上がりで量産する酒造りが、日本酒をダメにした。世界の人々に美味しいと言わせる酒造り、感動を与える酒造りをしないといけないのでは」と問題提起。
日本酒復権の道は?!
その後、三つの課題について意見をだしあったが、全体をまとめてみると、「酒造りの理念」については、
@80%以上は水でできているのであるから、水の性質を知り、原料米についても良否を判断する目を養い、技を研鑽する一途 な姿勢が必要。
A原点に立ち返って、手造り、人造りから伝統+新しい技術で和醸良酒を造る。
B感性を磨き、飲み手に感動を与えるための総合力を培う。
C自然の摂理を理解し、飽くなき探求心を持って謙虚に100%力を出せる環境を。などが語られた。
次に「酒造業界に望むこと」でそれぞれ語られたことは@我々が精魂込めて造った お酒を、そのまま市場に出してもらい、本来のお酒を飲んでもらえるような努力を。
A安さに走らず、正しいPRをして飲み手に納得してもらうお酒を売ってほしい。
と、造り手の努力が報われるように、販売側の姿勢の変更を求めた。
また「日本酒復権で考えていることは」
@上手な飲み方を教える
A風土に根ざした酒
B世界的に酒(アルコール)は低迷しているが、良い酒を適量飲めるように
C日本食に合い、楽しく飲めて酔える酒を
D精米歩合を競うのではなく全国新酒鑑評会も50%精米で技を比べるのも良いのではと、日本酒復権に対して、日本酒の造り方から飲み方まで多岐にわたった。
最後のまとめで助言者の筒井謙之金沢国税局鑑定官室長は、淡麗辛口を追求するあまり焼酎に近づきすぎて、今焼酎に量で負けてしまっているが、原点に返って、プライドを持って市場に良い酒をだせば、必ず本物の日本酒は認められると締めくくった。
確かにマスを追求するあまり、造り手から飲み手へきちっとしたメッセージが伝わらなくなってしまっているように思う。我々が波瀬さんや農口さんや坂口杜氏さんに接し、肌の温もりを感じて愛飲するのは、単に造る人、飲む人という姿の見えない関係から、垣根を越えて、相互に補完し合える関係がこれから求められるのではないだろうか。
川柳に思いを込めて
午後は同じ場所で「これからの需要動向と酒造り」と題して、金沢の酒蔵・福光屋の福光松太郎さんの講演があり、日本酒復権の秘策として、川柳風のリーフレットが配られたので列記すると
アミノ酸
あれこれ買うより
日本酒飲もう
血管も
ほろ酔いついでに
若返り
そのお腹
お酒じゃない
つまみだよ
合いの手に
水をさすのは
酔い上手
恋をして
飲んでつければ
あらきれい
一杯で
ストレス半分
楽しさ倍増など「日本酒ほろ酔い健康法」を解いている。
100回目の一位は?
午後三時からは会場を珠洲市健民体育館に移してメインイベントが始まった。
最初に第一〇〇回能登杜氏自醸清酒品評会の結果公表と表彰。
吟醸酒部門の上位は
一位に静岡県「初亀」を醸す瀧上秀三杜氏
二位に福井県「黒龍」を醸す畑山浩杜氏
三位に静岡県「開運」を醸す波瀬正吉杜氏
(畑山さんと波瀬 さんは同点)
普通酒部門の上位は
一位に石川県の「宗玄」を醸す坂口幸夫杜氏
二位に福井県の「わかさ」を醸す山岸昭治杜氏
三位に滋賀県の「松の司」を醸す瀬戸清三郎杜氏
らが受賞。さすがに記念すべき回だけあって各杜氏も例年以上に力が入っていたと予測される。
その後、私は波瀬について入賞酒を一つ一つ解説してもらいながら?き酒をしたが、レベルの高さに感動させられた。
その後は祭り気分で体育館の溢れかえる日本酒を、味わう。もちろん体力に限界があるため、出品されている一割もテースティングできず。同行した常連さんは宿舎に帰っての二次会用に何本かは頂戴していた。
全国新酒鑑評会の審査は
通算92回を迎えた「平成15醸造年度全国新酒鑑評会」は1,049点が出品され、入賞酒529点、金賞酒278点が決定された。
278点もの金賞酒がでるわけだが、なかなか取れるようで取れないのが金賞と言われ、まして何年も連続して受賞するのは至難。
大阪も珍しく三蔵が金賞を受賞しましたが、今回はその審査方法の変化と審査委員について触れておくと。
今年からは、従来行っていた酸度別に区分し審査する方法から、あらかじめガスクロマトグラフィーによる香気成分分析を行い、香気成分含有量に基づいてグループ化して審査された。 そのことによって、出品酒間での極端な香りの違いが「減点対象」になりにくくなったことは良いことだと思われる。
予審と決審に分けられ、表のようにメンバーは替わる。予審審査委員には酒造メーカーが結構入っていることは良いことですが、残念ながら我々のような色んなお酒を扱っている飲食店や酒販店から審査委員が出てないのは残念である。3日連休、いかがお過ごしですか?もう一日休みがあると思うとついのんびりしてしまいます。
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Zakkaya Weekly No.427
雑貨屋 店主 大西良衛 zakkaya@news.email.ne.jp