Zakkaya Weekly No.418
Ryo Onishi 5/16/2004
雑貨屋のひとり言 さくらの独り言 川 柳 & コント バックナンバー 成岡流お酒の楽しみ方 河合さんの・・・ 森田さんの・・・ 健康のお話 雑貨屋ホーム テレビの報道番組で有名な温泉で塩素消毒をしていることを報道していました。あの有名な道後温泉や有馬温泉でも塩素消毒をしているようです。有馬温泉は利用者に塩素を使っている事実も伝えていないそうです。温泉の衛生は役所が管轄しているようですがあまりにも短絡的で、智恵のないやり方にあきれると同時に、腹が立ってきました。
(R.O.)
150年前の日本開国 ―― (その1)ペリーは浦賀に突然出現したのか?
昨年は米国のペリー艦隊が浦賀に来航した1853年から150年目の年でした。そして今年は日米和親条約(神奈川条約)を始め、日・英、日・露和親条約が締結され、日本(江戸幕府)が200年を越える鎖国という重い扉を開き、国際社会への第一歩を踏み出して150年目という記念の年になります。
これまで私が理解していた日本の幕末、開国に関する歴史認識はまことに浅く、ほとんど無智であったことに気付いた私は、重要な節目にあたるこの機会に、150年前の歴史について興味を覚え、関連するいくつかの書物や資料をあたってみることにしました。そして私は改めて自分がいかに勝手な思い込みや中途半端な知識であったかを思い知らされました。
以下は、幕末・開国史にまつわる “私の新発見” メモ集です。(多くの皆さんは既にご存知の事実ばかりかも知れませんが・・)
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☆(その1)ペリーの浦賀来航は突然で、晴天霹靂(へきれき)の出来事だったのか?(前編)
『太平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たった四はいで夜も眠れず』(「上喜撰」というのは高級茶のブランド名のことであり、その上喜撰をたった四杯飲んだだけで、つまり蒸気船が四隻来航しただけで夜も寝られない、と皮肉った狂歌) と歌われたペリー艦隊の日本来航(1853年7月)ですが、私はこれまで、日本(幕府)側は、予想もしない突然の黒船出現にびっくり仰天したものとばかり思っていました。
しかし、実際はそんなことはなく、決して晴天霹靂(へきれき)の出来事ではなかったことを知りました。
鎖国中の幕府は、その鎖国政策のため日本人が直接に外国に出向いて情報を得ることは出来なかったし、たとえ幕府の役人であっても、否、幕府の役人だからこそ、その禁を破ることが出来ないことでしたが、それでも当時、鎖国の例外扱いだったオランダ(船)と中国(船)から日本へは相当の国際情報がもたらされていたようです。
当時、オランダ船がもたらす情報を「和蘭風説書(オランダふうせつがき)」、そして中国船がもたらす情報を「唐風説書(とうふうせつがき)」と呼び、特に幕末近くになると、「和蘭風説書」は長崎奉行の要請でいっそう詳細なものが提出されるようになり、それを「和蘭別段風説書(オランダべつだんふうせつがき)」と呼
んでいました。
1852年に提出された「和蘭別段風説書」には重要な情報が記されていました。ここには「北亞墨利加共和国政治」の政府が日本国に通商開始の使節を送りたがっており、そのための艦隊が、すでに中国に到着しているという記事が含まれていたそうです。そしてそこには「北亞墨利加蒸気船仕懸之軍船」の一覧まで書かれていたとのことです。
即ち、ペリー提督一行の黒船艦隊に関する情報は、艦隊が実際に浦賀へ来航する一年も前に、来航の目的から艦隊の詳細にいたるまで「和蘭別段風説書」として日本側に知らされ、幕府へ伝わっていたことがわかります。
しかし、風説書を受領した当時の幕府の対応ですが、老中阿部正弘は情報の重要性を知っていたがために、それを幕閣のみで秘匿すべきではないとしながらも、そうかといって広く流布させると影響が大きすぎると考え、いくつかの限られたルートで回覧したようです。
このように、この情報の伝達範囲を幕府上層部と諸藩の一部に限っていたため、下級役人や一般庶民は当然知りえなかったと思います。
私の調べた限りでは、浦賀奉行所では奉行にまでは知らされていたようですが、現場の任にあたる与力には知らされておらず、そのため後に実際にペリー使節と交渉にあたった与力の香山栄左衛門は対応が後手に回ったと悔やんだと書いてありました。
いずれにしても、当時の日本(幕府)は決して国際情報や国際情勢に関し、まったく無智・無策であったわけではないと改めて知りました。幕末、開国前夜の日本(幕府)の国際情報収集力や外交能力については改めて書きたいと思います。 ――― 次回に続く ―――
(参考資料:加藤祐三著「黒船異変」岩波新書、加来耕三監修「90分でわかる幕末・維新の読み方」かんき出版、その他)河合将介(skawai@earthlink.net )
さくらの独り言「ラン・ラン・ラン」
デパ地下で買った弁当を抱えた私は、とろける様な心を踏ん張りながらバスのステップを降りた。その足が地面に着くや否や、平凡で些細なことに覚えるこの幸福感が溢れ出んばかりに、私は微笑んでいたに違いない。バス停ベンチの横には、遠方から上京した友人が立っていた。我家を訪問してくれる彼女より遅い帰宅になった私の到着を、「お迎え」に出てくれた(バス停で待っていた)のであった。「お帰り!」・「ただいま!」と挨拶を交わした後の私たちは、まるで下校時の小学校児童の様に“ラン・ラン・ラン”気分で歩いた。雨は降っていなかったが、再会の喜びに幼児の揺れる心の様に足取りも軽く、心も躍った。この歳になって初めて気がついた、「お迎え」は、する側もされる側も“ラン・ラン・ラン”なのだと。
幼児から老人まで、日本人なら誰でも知っている歌『あめあめふれふれ母さんが じゃのめでおむかえうれしいな ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン』で始まる『アメフリ』は、北原白秋が作詞し、それに中山晋平が曲を作って誕生した。1925年(大正15年)のことである。誰しもが、物心ついた頃から愛唱した唄のひとつでもあろう。こども時代、母が学校に迎えに来てくれたり、傘を持ってきてくれたりしたという記憶は全くない私。同居していた叔母かお手伝いさんかが傘を持ってきてくれた様な記憶が、かすかに残っている程度だ。傘を持って迎えに来てくれるような母親を持つ友人を羨ましくも思ったが、男顔負けのお転婆だった私は、雨が降ると男の子と一緒に“雨”を愉しみ、普段より遅い帰宅になって叱られたものだ。例えば、長靴の中にわざと水を入れ、水の量や歩く力の強弱・速度によって変化する音の創造を愉しんだ。そのリズムは、『アメフリ』の“チャップチャップ”というよりは“クチュン グシュン”といったもっと滑稽で、歩きながら水溜りに身を落としそうになるくらい笑い転げたものだ。蛙やカタツムリや石ころを、天から地に、そして地の上に流れるその水に「遊びこころ」を見つけながらの小さな冒険だった。それは私たちこどもを“ラン・ラン・ラン”気分にさせてくれた些細な、しかし大きな恵みの雨がもたらす出来事だった。
ところで、ユーラシア大陸の東方端に位置し、東西に弓形を形成陸地の周りを海洋に囲まれているわが国日本は、中国大陸からの高低気圧の動きに湿度が加わるため、美しい四季の変化をもたらすが、梅雨もその特長のひとつだ。そんな自然環境のもとで生まれ育つ文化の中には、雨を主題にした歌が多い。『雨降りお月』(雨降りお月さん 雲の陰 お嫁に行く時きゃぁ誰と行く〜)、『雨』(雨が降ります雨が降る〜)、『雨傘唐傘』(あまがさからかさ かささしてお迎え〜)、『雨がしずかに』(雨がしずかに降ってます〜)、『絵日傘』(桜ひらひら絵日傘に〜)などである。おとなにとっては憂鬱でしかたのない雨を、素朴な情感と陰陽のリズムを踏むメロディに、無垢なこどもの揺れる足取りが目に浮かぶ。このような童謡や、唄を歌いながらお遊びをするわらべ歌の日本文化を、物心ついた頃から身近においてくれた環境や時代について、今更ながら感謝する。雨に関する童謡のみならず、前述した中山晋平作曲の童謡(シャボン玉、あの町この町、背くらべ、てるてる坊主、肩たたき、うさぎのダンス、手まりと殿様など)は、絵が描かれたレコード盤でよく聴いたものだ。1960年代初めのこと、私のこころはいつも、ランラン節だったに違いない。
今思えば私にとって、童謡・童話を始めとする音や言の葉の楽しみは、母ではなく父からの贈り物だった。絵つきレコード全集や日本・世界少年少女文学全集などを買ってきては聴いたり読んだりする環境やチャンスを作ってくれたのは、父だった。そして父自ら私に、ハーモニカやオルガンで歌を歌ってきかせたり教えたりしてくれ、また昔話や世界文学を語ってもくれた。今はあの頃耳にした童謡の一つひとつが、この美しい日本の四季が巡る度に私の口をついて出る。あの頃気づかなかった父の愛情や幸福感を、この友人の「お迎え」という些細な出来事を機に知らされた。もうすぐ梅雨がやってくる。同時に父の日もやってくる。憂鬱な時も、“ラン・ラン・ラン”とリズミカルに歩いてみようか・・・っとつぶやく、さくらの独り言。
(kukimi@ff.iij4u.or.jp)
川 柳 & コント(東京・成近)
( 川 柳 )
七十の趣味ゼンマイを巻き戻す
もうでなく まだ七十のマイペース
リバイバル映画に俺も笠智衆
こんな日もある一球の負け投手
負けるなと言う父の樹の節の数
( ニュースやぶにらみ )
「神崎、冬柴氏も年金未納」
ソウカガッカリ −創価学会
「カラオケ18番」
君(ブッシュ)といつまでも −小泉首相
昔の名前で出ています −小沢新代表
「絶滅危惧種」
日本人横綱 −相撲協会
(東京・成近) E-mail nakawai@adachi.ne.jp
http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm
森田さんから
煮るなり焼くなり
「なんだ! この匂い?」
早朝五時半、いつもの散歩をしようと玄関ドアを開けた途端、夫が叫んだ。
パロス・バラデス半島の東側のふもとに製油所がある。私たちがこの半島の丘の中腹に住み始めた当時は、風の向きで異臭が漂ってくることもあったが、三十年経つとまったく気にならなくなっていた。さては製油所の匂いか、と私は思った。
「こりゃ、ガスの匂いだよ」
臭覚に敏感な夫は、間違いないという。
シュシュシュ、シュシュシュユー。妙な音がする。
「おい、キャンパ―だよ、キャンパーからガスが漏れているんだよ」
我が家のドライブウエィには、二十四、五年も置きっぱなしになっているモーターホームがあった。長さ二十二フィート、シャワーにトイレ、キッチンの設備が整い夫婦と子供二人程度なら寝泊りできる、まさに動く家である。それをキャンパーと呼んでいた。
匂いと妙な音の発信源は、車体の下部に取りつけてあるプロパンガスだった。錆びてタンクに穴が開いたのかもしれん。なにしろ古いからな、といって夫は地べたに這いつくばって覗きこんでいたが、ガス漏れの個所が分らない。困った、困ったことになったぞといいなから、ガス会社に知らせるべきか、プラマーか。しかし、この時間では開いていないし、二時間もすればタンクが空になるだろうから、それを待つしかないと脳天気なことをいって夫は散歩に出た。
しかし、プロパンガスを交換したのが三年前だから、ひょっとして穴が小さければ八時間はかかる。不安になってきた夫は引き返してきた。
「使いもしないキャンパーに余計なことを」
大きな車がドライブウエィを占拠しているのも私は気に入らなかった。以前は、通り掛かりの人が売って欲しいといったことも一度や二度ではない。その都度夫は、
「結婚したら女房をつれて全米をまわるのが、オレの独身時代からの夢だ」
そういって、売ることを頑なに拒んだ。
事あるごとに「売ろう」と私は言いつづけたが、夫は耳を貸そうとはしない。昨今のガソリンの値上がりでキャンパーの旅は割高である。だが、夢を捨てきれない夫は「バンを買おう。あれで全米を」としつこい。
「キャンパーを処分するのが先よ」 といっていた矢先のガス漏れである。
「そうだ。消防署に聞けばなんとかしてくれるかもしれん」
911に電話をすればというのに、夫は「サイレンを鳴らしてきたら近所迷惑だといって、消防署へすっ飛んで行った。一人取り残された私は、いざという場合を考え緊急時の持ち出し品まで考え、気が気ではなかった。
夫の後につづいて消防車が二台もやってきた。耐熱服に身を固めた大男が四人、車から降りてきた。キャンパーの下へもぐりこんで調べていた。消化用ホースを引っ張りだして待機している。ガスは残り僅かだから、抜けるのを待つしかないという。
ボスらしい男が「使っていないのだったら売らないか」と夫に聞いた。私は内心、シメシメこれでやっと粗大ゴミが処分できる。さすがの夫も観念したに違いない、と思ったら五千ドルと法外な値段をつけた。もらってくれる人がいるだけでもありがたいのに。
消防署の男たちが帰った後、ここがチャンスとばかり私は夫の顔色を伺いながら、
「この際、キャンパーを処分しましょうよ」
すると、頑固な夫はこういったのである。
「いいや、オレの目の黒いうちは売らんぞ! オレが死んだら、煮るなり焼くなり、オマエの好きなように」女子バレーの韓国戦をテレビで見ていましたが、チームに勢いがありました。強いです。この調子でアテネオリンピックでがんばってほしいですね。アテネしています・・??それから美人が多いなあと思いました。どんどん人気がでてファンが増えるでしょうね。
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雑貨屋 店主 大西良衛 zakkaya@news.email.ne.jp