Zakkaya Weekly No.346
Ryo Onishi 12/29/2002
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2000年5月にスタートした雑貨屋ホームページのカウンターが、ついに20000を超えました。大台に乗った感じがします。月々約650ずつ増えた計算になります。読者が毎週、習慣的に読んでくれているのだと想像しています。これも毎週、すばらしい原稿を送って下さっている執筆者のおかげです。心よりお礼申し上げます。
クリスマスもいつのまにか過ぎて2002年もあと2日ですね。2002年はみなさんにとってどんな一年でしたでしょうか?来年もまた新たな気持ちで、一号一号を積み重ねていきたいと思います。来年も雑貨屋をごひいきにお願いします。
月並みですが、みなさん良いお年をお迎えください。(R.O.)
「光 陰 矢」 は 加 速 す る ―― 以下は当Zakkaya Weekly #30(1996年12月7日発行)に記載された私の原稿「年 とともに 月日の経つのが早く感じるのはなぜ?」を Mainichi.com「シルバー世紀、いまサラUSA」用に書き直したものです。―――
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2002年も間もなく過ぎ去ろうとしています。毎年のことですが、年末が近づくと、「月日の経つのがなんと早いことか、それも年とともに加速されている」 とつくづく感じます。
ここ数日、友人・知人と顔をあわせた時、 挨拶の第一声はいつも 「もう今年もあと少し、ホント月日の経つのは早いですネ」 が口癖となっています。
今日受信したメール仲間からの通信文にも「特に変わったこともしていないし、する予定もな
いのに日が経つのが早くて気ぜわしい感じがしています。子供のころは時間の経つのがおそくて、お正月など指折り数えたりして、待ち遠しく感じたのに、年をとるにつれて時間が早く経つように感じ、最近は特にそれを痛切に実感しています」とありました。
「人間はなぜ年齢を重ねるにしたがって、月日の経つのを早く感ずるようになるのか?」 と言うテーマについて、興味を引く記述を見つけました。それを私なりに解釈したものを以下ご紹介します。(織田一朗 著 「時計の針はなぜ右回りなのか」草思社版より)
私達は年をとり、大人になり、社会や組織、または家庭で次第に責任ある立場になってゆきます。
その結果、時が経つのも忘れて 仕事や家事や社会活動に没頭するあまり、結果として月日が早く過ぎると感じてしまう。――― 私は今までこのように理解して疑いませんでした。
確かにこれも決して間違いではないようですが、これ以外にも いくつかの学説があるのだそうです。例えば;
(1) フランスのある心理学者は、「人間の心理的な時間は、その人の年齢の逆数に比例する」と主張していると言います。即ち、「10才の子供にとって1年とは 過去の全人生の 1/ 10(10分の1) だが、50才の人にとって1年とは過去の全人生の 1/ 50(50分の1)にしか過ぎず、その分 時間が早く感じられる。すなわち50才の人の一年間は、10才の時の1/ 5(5分の1)にしか感じない。」 と主張しているのだそうです。
(2) イギリスの心理学者 ジョン・コーエン博士の説によると、「一般に生物は 体温が下がると新陳代謝が弱まる。人間の場合、子供の体温は相対的に高く、年をとるにしたがって体温は下がり 新陳代謝は弱まる。新陳代謝が弱まると、人体時計はそれに合わせてゆっくりと廻るようになり、相対的に時が早く過ぎるように感ずる。」 ということなのだそうです。
上記、コーエン博士の説は、たとえていうなら、「二台の自動車が高速道路を同じスピードで並んで走っている時、自分の乗っている車のスピードを落とすと、相手の車の方がスピードをあげたように感じるのと同じ。」 と いうことなのだそうです。
中年を過ぎて、時の経つのが早く感じるのは、仕事が忙しいからでも、責任ある立場になって頑張っているためでもなんでもないのだよ。ただ単に、アンタも老化が進行しているんダ、という、ただそれだけの事ナノサ! ――― これじゃあ ちょっと人生寂しい気がしないでもありません。
子供の頃、お正月や遠足の日を待ちわびて、指折り数えた遠いあの頃は一日一日は長く、それだけ日々成長過程にあったと言うことなのでしょう。
もう一度、あの頃に戻りたいと思っても叶わぬ夢というものです。
ところで、今は年末、忘年会のシーズンです。日本人はなぜ年末パーティを「忘年会」と言うのでしょうか。
それは「その年の苦労を忘れるために、年末に催す宴会」<岩波書店、広辞苑・第二版>であるからでしょうが、私はそれだけではなく、そこには「年齢をひとつ加算することも忘れ(昔は新年とともに年齢が1歳増えた)気持ちの上で若さを保とう」と言う前向き発想も秘められているのだと信じたいと思っています。
肉体年齢がかさんで「もの忘れ」が多くなっても、それは嫌なことを思い出さないように「忘却力が充実した」と解釈し、前向き発想に変えただけで人生は180度変わります。
私は「忘年会」とは人生前向きに過ごすための智恵なのだと思っています。自分が生き甲斐を感じ、充実した時間を過ごしている時、人は「時を忘れ、我を忘れ」ます。
上記の学説に逆らうわけではありませんが、私は「月日の経つのが年齢ととも早く感じる」のは、決して老化が理由ではなく、「時を忘れ、我を忘れ」るからなのだと信じたいと思います。『光陰矢が加速』しても、それはそれで至福と思うべきだと納得することにしています。河合将介( skawai@earthlink.net )
さくらの独り言 「シルクロードの旅」
2002年12月28日、喜多郎の「シルクロード」を聴きながら、今年最後の独り言を呟いている。いつものことだが、未だ観ぬシルクロードに魅せられている。大地と歴史の鼓動が、静かに胸に響く。空にちりばめられた無数の星の、その詩を奏でるさまが観える想いになる。それはまるで、今迄出逢った人や出来事の様だと、この1年を想起する。シルクロード(NHK)の製作に携わった知人が云っていた言葉を想い出す、「命の数だけ、人間の数だけのシルクロードがある」と。
2002年12月28日8時16分、シルクロードを愛した男が逝った。佐藤健(さとうたけし)氏、60歳、食道癌だった。2001年8月肝臓癌発覚。彼はその宣告後、癌をおしてシルクロードの要衝(敦煌)へ旅し、今年9月から再度入院。12月3日毎日新聞朝刊から「生きる者の記録」を連載してきた毎日新聞専門編集委員長である。76年に「宗教を現代に問う」(連載記事)で菊池寛賞を受賞したことでも知られ、著書には「マンダラ探検」、「東欧見聞録」、「ルポ仏教」等がある。彼は自らの闘病記録の連載について「42年間の記者人生を締めくくりとして、自らの肉体をフィールドにルポルタージュを送りたい。生と死の風景が蜃気楼のように揺らぐこの時代を、最後迄生きようとする思いを」(毎日新聞12月3日:「生きる者の記録1」より)と、述べている。佐藤氏は告知後、シルクロードの旅の許可を担当医に打診した。その医者から「止めても行くでしょう。人間にはそれぞれ人生観というものがあります」と云われ、自分という人間の生きざまを認めてくれたようで、言葉が胸に染みたと佐藤氏は書いている(毎日新聞より)。また彼は、息子が知人に語ったという「おやじは家庭人としては失格だけど、男としては最高だと想う」を嬉しく想ったというから、生前の彼の生きざまがどんなものだったか、多少なりとも想像できる。そんな彼に私はニンマリ、そしてそんな男に一目も会えず、先立たれた事を残念に想う。「最後はにぎやかなのがいい」と言い残された家族や仲間達は今、愛する者がシルクロードの旅を終え、星にかえった時の中に居るに違いない。
「絹を運んだから『絹の道』(シルクロード)と呼ばれる」と学んだ中学時代の私はその道を、華やかな商業/文科交流と想像した。しかしこの道は、常に紛争や戦乱の舞台でもあった。命を賭けて渡る砂漠の向こうには、金と権利が在ったに違い無い。巓に谷にと盗賊や集税人もいたし、略奪者の争いも絶えなかった。同時にこの絹の道は、人の生きざまに関わる宗教や思想を、そして煌く芸術を生み伝えた。ローマから長安、そして日本の奈良に至るこの道は、「仏教伝来の道」とも云われる。しかしそれは言い換えれば、「生」の道だったのかもしれないと想う。そう想っただけで私は、本物のシルクロードの、そのほんのかけらにでも触れたいと、来年旅立つ想いに駆られ、焦っている。
「師走」という忙しい年の瀬の岸辺で、過ぎようとする年を「静か」に物想う。振り返る基準が「何をしたか」から「どう生きたか」や「どんな出逢いがあったか」へと変化している自分が興味深い。歳をとったということかもしれない。アンデルセンはこの世を去る時「嬉しいことも悲しい事もあった、だから幸せだった」と云った。同様に今年の私も、そう云いたい。付加するとしたらひとつだけ、「あなたに出会えて感謝、それぞれのシルクロードの旅の途中で」かな、っと、さくらの独り言。
(sakuratsubomi@earthlink.net)
マキちゃんの健康のお話
−2002年最後の健康のお話。−
皆様、今年もとうとう最後のZAKKAYAとなってしまいましたねぇー、えっ?それよりも久々の登場で、今までイッタイ何やってたんだーっ、ですって?
....さて、本年最後の健康のお話なんですがぁ、何をしようかと考えたところ、やっぱり『お酒』がいいんじゃぁないのかなっ?
っという事で、皆さんもタイへ−ンご興味があるはずの『お酒のお話』。
いよいよ来ました忘年会シーズン、一年でもっとも楽しみの方、逆にもっとも恐怖の方、いろいろいらっしゃる事でしょうが、そもそも『お酒』の強い、弱いは、なぜ起こるのでしょう?
それは、遺伝や体質的にアルコールの代謝能力の違いからなんですねぇ。
アルコール(アメリカではアルコホールっていうんですねー)は、体内に入ると肝臓で酵素の助けを受けて、アセトアルデヒトっていうのに変わり、それがアセテートという物質にまで代謝されて、二酸化炭素と水とに分解されまーす。ところが、酵素の量が少ないなどの理由でアセトアルデヒトの分解がスムーズにいかず、肝臓から血液に流れ出して、悪酔いや二日酔いを起こしちゃう、これが“お酒の弱い人”。
実は、遺伝子によって生まれつき“飲める”“飲めない”が決まっているそうで、面白いことに、日本人やその他アジア人の約40%が“お酒に弱い人”なんだそうで、その他の国では、“お酒に弱い人”は、ほぼ0%なんだそう..。
んじゃぁ、鍛えればいいんじゃない?なんですがーっ、..ムリ..。
この場合、脳細胞のお酒に対する反応や体のいろいろや反応が鈍くなって感受性が弱まっただけのお話し。
だがしかーし、そんなことはともかくとして、たいがいの方はお酒を飲むと気持ちよくなり、酔って陽気になりますねぇ..だから止められーん。
これはアルコールによって脳細胞が麻痺した結果。
我々の脳は、通常、理性が本能の暴走を包み抑えこんでいます。
しかし、ちょっと『お酒』が入ると、理性をつかさどる前頭葉に軽い麻痺がはじまって、ムクムクと本能が現れてくるんですねぇ。
そしてそして、『お酒』が進むにつれ、理性の麻痺は頭頂葉にまで広がりをみせ、結果、自制心が薄れて大胆になり、やがてヘロヘロとなり『お酒』が『おちゃけ』状態となります。
とはいえ、『お酒』はほろ酔い状態であれば精神的にはストレスのレベルを下げ、緊張感、不安感を和らげてくれ、食欲を促進させてくれます。
身体面では、血液中の善玉コレステロールを増やして動脈硬化を防ぐ、なんてー事もしてくれちゃうんですねぇ。
じゃぁ、年を跨いで来たる2003年最初の健康のお話しは、【失敗しない!お酒と上手に付き合っていく方法】をお話ししたいと思います。(あ〜見逃せないぞ〜)
皆様、本年もお付き合いいただき、誠に有難うございました。来年も旧を倍してのお付き合いよろしくお願いいたします。
日本もこちらアメリカもパッとしないどころか、イヤ〜な雰囲気を漂わせたまま年を跨ぎそうですが、皆さんにとって最高の年でありますように..。
良い年をお迎えください。
蒔田 龍人
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教育の方程式
父の思い出
父はアメリカに来たからボケたのかどうかわからない。 日本でも自分の土俵で相撲を取ることは好きだったが、すでにある活動に自分から飛び込んでいくタイプではなかった。
74歳で29年経営した保育園を引退して、自分から望んで3人の子供達の住むLAにやってきた。 LAに来てからは長男の私と暮らし、ゴルフと野菜作りに精を出した。
ゴルフといっても大半はドミンゲスにあるショートコースを一人で回り、1発目は必ずドライバーで打った。 決して人には教わらなかったし、私たち以外とはコースを回ることはなかった。
野菜作りも一人だった。 カリフォルニアの気候とワインを愛し、コップ3杯のワインを無上に愉しんだ。
ボケがかなり進んだ5年前の正月、家族で新年の決意を披露しあった。 父のそれは「ゲーム式学習を広める」だった。 教育の現場を離れて10年も経ち、もはや指導する機会も皆無だったので、それ以外のことを色々とアドバイスしたが、真剣な顔で「ゲーム式学習」と言う父が少し可哀想でもあった。
3男の結婚式で「努力し、努力する。 これ人生哉」という言葉をはなむけにした父は、まさにその通りに生きた。 最近「朝2時起きで何でもできる」という本を読んで、普通の主婦が数年後、同時通訳者になったという話に感心したが、父も何十年と朝3時に起きて教材作りに精を出した。 その努力は「青年の国語」または、「1〜6年生の国語」という本になって、地域の青年や小学生の教育に貢献した。 しかし、生涯を通して4度の出版は、いずれも自費出版だったため、給料のかなりと退職金がそれで消えていった。 大手の出版社が出版してくれないと分かると、いきなり当時で100万円以上もする印刷機を購入し、印刷工を雇うような父だったから、教育者としては尊敬できても、経営者としては失格だった。
私が高校を卒業した時、6冊の漢字の本を持って、教師をしていた母を辞めさせて上京した父。 その半年後から4年半、私と両親の3人で東京の板橋で塾を経営した。 毎晩9時に終わると泡盛で一杯。 手拍子で歌を歌った。あの頃が一番懐かしい。
父は生まれて初めて引いた風邪をこじらせて肺炎になり、今年の11月26日に永眠した。 89歳だった。
西尾 誠一郎
川 柳 & コント(東京・成近)
( 川 柳 )クローンの 指 パンドラの箱に触れ
白菜を 漬けて今年も 妻達者
改革の 活字すり減り 年終わる
ダルマの目 小さ目に入れ 年終わる
百八つ 鐘撞いてなお 人の業
( ニュースやぶにらみ )
(1)「仕事納め」
その仕事がないんだ ――― 失業率 5.3%
(2)「ウマ年回顧」
馬齢を積んだだけだった ――― 私
(3)「ヒツジ年展望」
未だ先が見えない ――― 日本経済
(東京・成近) E-mail nakawai@adachi.ne.jp
満腹したら食休み(50)
「京都の口福 続き」
京都3日目、胃がキリキリ痛んで食欲が出ない。身体にも力が入らずやたら座りたくなる。前日の元気は一体どこへいったのだろうか。それでも京都の誘惑には逆らえず、楽しみたいという気持ちが強く、薬局で胃薬を求めて気合を入れる。
京都在住の友人のご主人が運転する車とタクシーに分乗し、茶道をしている友人の希望で、まずは老舗和菓子屋へ。「末富」(下京区松原通室町東入ル075-351-0808)は上品なお茶菓子として有名。薄い麩焼きの間に梅の餡がほのかに甘酸っぱい「うすべに」を私も茶道を教える母に買うことにした(12枚1200円、24枚2200円)。やはり今日も朝から食べることを優先する熟女たちである。
次に向かうのはお茶道具の展示では小さいながらも趣味の良い「野村美術館」。南禅寺のすぐ側にあり、その足で南禅寺も拝観して冬枯れの京の庭を楽しませ貰った。
そうこうしているうちにお昼。予約時間に遅れないように四条の「彩席ちもと」(下京区西石垣四条下ル075-351-1846)へ向かう。老舗料亭ちもとのお料理がカウンターとテーブルで気軽に味わえる店。特に女性好みのお手頃なお料理をランチタイムには用意。狭いながらも老舗ならではキリッとした雰囲気が感じられる。2階の予約席へ案内され、見渡せばどのテーブルも熟女ばかり。わが友人のご主人だけがここでも黒一点。観光客ばかりでなく地元ミセス御用達の店のようでもある。「彩点心ランチ」(2500円)を頂くが、残念なことに私の食欲は相変わらずで、かわいらしい点心を半分以上残してしまった。残念、無念。
昼食の後は南座などを見ながら四条通りを少し歩き、次に華道池坊の六角堂まで移動。ここで鳩のおみくじを買って、近くの喫茶店で休憩。コーヒーをそれぞれ違う趣味の良いカップに入れてくれるのだが、私に運ばれて来たカップを見てその偶然にびっくり。香港に駐在の頃、夫が気に入って買ったロイヤルダルトンのカントンという我が家の思い出のカップではないか。百種類以上はあるカップの中から選ばれたその偶然に、夫をひとりロサンゼルスに帰し、遊び暮らしている妻への警告かと穿ってしまったのだが。
ここで黒一点の友人のご主人と解散、熟女たちはいそいそと京の台所、錦の市場へ向かう。めずらしい京野菜、おいしいお漬物、生麩専門店などに目も心も奪われ、ここでも熟女の歩みは遅い。錦のアーケードが3倍くらい長く伸びてしまったかのような時間のかけようであったが、全員が行きたかった所だったので大満足。
さて、そろそろ夕食の時間であるが、黒一点に続いて私もここでリタイヤー。全く食欲が無いのである。皆は祇園の料理屋を現代風の居酒屋に改装した店へ行くというが、私は一足先にホテルへ戻って休むことにした。これまた残念。
さていよいよ京都を離れる日、前の晩ぐっすり眠れたせいか、やや体調も回復。朝食はしっかり食べようと、宿泊ホテル(新・都)地下にある京料理の「浜作」で「朝粥セット」(2000円くらい)を食べることに。これだったら私の胃にも良いかもしれない。なる程、あっさりとして食べやすく、少しずつのおかずがこれまたぴったり。京の口福を締めくくるおいしい朝食となった。いやいやまだ締めくくりではなかった。東京へ向かう新幹線の中で食べようと駅の伊勢丹デパ地下で買った、あの「下鴨茶寮」の季節限定「もみじ弁当」(1300円)が京の締めくくりであった。さっか あきこ akikosk@webjapan.com
羅府の庄助 skawai@earthlink.net
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Zakkaya Weekly No.346
雑貨屋 店主 大西良衛 zakkaya@news.email.ne.jp