Zakkaya Weekly No.317
Ryo Onishi 6/9/2002
ワールドサッカー、ロシアとの戦いに歴史的な日本初勝利です。すごかったですね。決勝トーナメント進出に大きく近づきました。良かったですね。それにしてもサッカーは動きが速くて目が離せないですね。にわかサッカーファンの私でも、日本代表でがんばっていますからテレビ観戦で力が入りますね。テレビ番組で知ったのですが前半戦終了時と、ゲーム終了時にトイレを我慢していた人が一斉にトイレに行くので水の消費量が跳ね上がるそうです。次のチュニジア戦も楽しみです。(R.O.)
あまり 知られていないL.A. 観光スポット(126)Placerita Canyon Park & Nature Centerプラセリタ・キャニオン(Placerita Canyon)州立自然公園は、ロサンゼルスの北、サン・ガブリエル山地(San Gabriel Mountains)の西端、サンタ・クラリータ渓谷(Santa Clarita Valley)にあります。
Angeles National Forestにも含まれている地域であり、雨の少ない南カリフォルニアにしては珍しく、オーク(樫の木)を中心にシカモア、柳などの木々が茂り、また、季節によっては小川のせせらぎもあり、自然溢れるところです。
駐車場近くには ビジター・センターを兼ねたミュージアムがあり、この地域の自然を説明した解説・案内・展示があり、家族連れや子供達のグループで賑わっています。
自然散策のためのトレイル(ハイキング道)として“Heritage Trail”ほかいくつか用意されています。また、キャンピング、ピクニックのための施設も整備されており、ロサンゼルスの雑踏からほんの一時間で辿りつける自然の別天地といえるでしょう。
この自然公園に隣接するところに、ウオルト・ディズニー社所有の場所があり、そこに古い西部劇映画用の街(セット)が残されています。
そのセットの街並みの端に幹が太い古色蒼然とした樫の木が立っています。そしてその木の前に立っているプレートには次のように書いてあります。
“The Golden Oak− Under this tree, gold was first discovered in California by Don Francisco Lopez March 9, 1842.”
なんと、ここはカリフォルニアではじめて金が発見された歴史の現場なのです。
この発見は、その後、サクラメント郊外で大量の金が見つかり、ゴールドラッシュのきっかけとなった 1848年より6年も前のことでした。
かつてはアメリカ原住民達が生活をし、その後、金の発見で沸き、そして今は私達の憩いの場を提供してくれているこの場所は、アメリカ西部の歴史そのものと言えましょう。
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- 住 所 :19152 Placerita Canyon Road, Newhall, CA. 91321
- オープン日 :毎日
- 時 間 :9:00AM − 5:00PM
- 入場料 / 駐車料 : 無料
- 電 話: :(661) 259- 7721
- Web Site:http://www.placerita.org/
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- 行き方は次の通り
(Torrance方面よりの場合)
- FWY#405(北)→ San Fernando で FWY#405 は FWY#5 と合流し、FWY#5 となる。
- FWY#5 になってからすぐ(1マイル)FWY#14 へ入る。
- FWY#14 に入ってから二つ目の出口である Placerita Canyon Road でFWY を降りる。
- FWY を降りたら、Placerita Canyon Roadを右折(東へ)、約2マイル進むと道路の右側に Placerita Canyon State & County Park の標識のある入り口があるので、そこを入る。
- ここまでの行程 ;(Torrance方面からの場合)約55マイル、ドライブ約1時間。
河合将介( skawai@earthlink.net )
さくらの独り言 「 かもめ 」
先月、友人の旧友が個展を開いたので二人で観に行った。油絵だった。北米の田舎のジェネラルストアーやガソリンスタンド、そして踊る様に奇妙な花など、合わせて40点余りの作品だった。一通り観終わり、私好みではないなと退場しようとした瞬間、10メートル程離れて再度観た一枚の絵にハッとさせられた。田舎の建物だが、「光と影」の見事なタッチだ。私は再び会場を一周した。残念ながらその1枚だけが私の心を捉えた。「点と線」の推理小説で有名になったのは松元清張だが、「光と影」について書(描・映)いた芸術家や作品は数多い。その絵を観ながら五木寛之訳の2冊、「かもめのジョナサン」と「リトルターン」を想い出した。その時「光と影」が、私の心をいっぱいにした。
「かもめのジョナサン」(リチャード・バック著/新潮文庫)を読んだのは、中学2−3年の頃だった。かもめを観ると必ず思い出すのが、このジョナサンだ。数学的頭脳と向上心を持つジョナサンの、食べることより飛ぶこと、さらに愛することの意味を探求する姿に共鳴した。同時に光と暗黒、弧と集団の奇妙なコントラストが大好きだった。「リトルターン」(ブルック・ニューマン著/集英社)は今年(2002年)新春、仕事を辞めようかと私が生き詰まっていた頃、叔父の紹介で初めて読んだ。突然飛べなくなったコアジサシという鳥の話だった。しかし67歳の叔父が何故この本を私に薦めたか、あまり理解できなかった。そして私の日々は、忙しく通り過ぎて行った。
1998年秋に会社更生手続開始の申立をし、事実上日本最大の倒産をした某会社は、1999年5月某米系企業によって買収された。優良企業とうたわれ、その業界では日本一を築いた姿は、その時消えた。買収合併(M&A)が日常茶飯事の今日ではあるが、身売りをする側の責任者とその作業・業務には想像を絶するものがある。今年5月、「管理職から経営者へ」という某会社新任取締役研修会(40名の1週間)を企画した時、前述した米系会社のアジアリーダーが講師の一人として協力してくれた。「講師の中で倒産体験者は俺独りなんだよねぇ」と言いながら、私のプロデュース通りのシナリオを提供してくれ、高品質の講演資料を協業(共創)できた。知り合って2ヶ月だったが、彼の仕事に対するロマンが私を魅了した。修羅場をくぐった人生なのに、不思議な程「光と希望」だけが感じられた。「人望も厚く誠実で優秀だ」と聞いていたとおりの人、そして準備だった。ところが講演当日、2時間で組まれた彼のセッションが1時間足らずで終わってしまった。プログラム上全く問題はなく、逆に他のセッションを前倒しにして付加価値を創出でき、結果的には大成功だった。ただ、彼が私の瞳を精一杯見つめながら会場を去って行くことに、私は罪悪感さえ覚えた。「話をしながらあの頃がよみがえり、涙が溢れるかと想うほど辛くなった。すまなかった。講演料は不要。東京へ戻ったらなるべく早く会おう」、そう言った彼の「影」が彼と共にタクシーの中へ消えた。「光と影」、お礼のため深々と垂れた私の頭を車が見えなくなっても上げられず、地面に一粒、自分が流した大きな水滴をしばし見ていた。
東京へ戻った私に届いていたのは、海外出張先からの彼のメールだった。私たちの再会は、梅雨の頃かもしれないということだった。直ぐに会えないもどかしさはあったが、私には、再び飛んだ彼の翼が見えるようだった。長い翼を風の中に持ち上げ大きく広げ旋回しているそんな彼の、地上の影の中にいる小さな自分が感じられた。彼の「光と影」に観た孤独も智慧も、彼との再会まで暖めることにした。自分の「光と影」を知っている人は、自分の人生の着地を知っている人なのだろうと、隅田川のかもめを見ながら呟いた、、、さくら。
マキちゃんの健康のお話今週はお休みです。
川 柳 & コント(東京・成近)
( 川 柳 )
一代の財六法の裏も読み
追い風が続くつもりでいた誤算
相打ちの覚悟のペンがドンを切る
金になりきった香車の一本気
人食ってきたと言ってる顔の艶
( ニュースやぶにらみ )
「福田官房長官の核発言」
オウンゴールはまずいよ −小泉首相
「活性化減税を増やす」
活性化減、税を増やすと聞こえる −国民
「昔は弾、今は球」
平和っていいな −日露戦
(東京・成近) E-mail nakawai@adachi.ne.jp
あっこのおいしいロサンゼルス
満腹したら食休み(34)
「鯨」
少し前の話になってしまうが、5月に国際捕鯨委員会(IWC)が山口県下関市で開催された。
今年もどうやら日本の主張は通らず、反捕鯨国に押された形のまま終わってしまった。
商業捕鯨停止から14年、日本は1987年からミンククジラに限り調査捕鯨という名目で、毎年400頭以上捕獲しているそうだ。果たしてこの数は多いのかどうか。ミンククジラの数は南極海だけでも76万頭、いや、もっと少なく30万頭くらいかもしれない。海洋生物だけにその実態を極めるのはむつかしい。
このミンククジラ、オキアミなどの動物プランクトンを餌にしているといわれてきたが、調査捕鯨でイワシやサンマも大量に餌にしていることがわかってきた。このままその数が増えつづけ、他種類のクジラの増加も考えれば、50年後には海からサバがいなくなり、サンマも減るとのことだ。
このことを踏まえ、日本は会議で「クジラ問題は食糧問題」として訴えた。昔から日本はクジラを水産資源として捉え、現在もその考えは変わらない。
しかし、片や反捕鯨国はクジラを守るべき海洋生態系の一部として考えている。彼らにとってこれは地球環境問題なのだ。環境団体グリーンピースなどは捕鯨産業の終息を目指し、全く譲歩の余地はない。捕鯨国と反捕鯨国、両者基本となる考え方の出発点が全く違うのだから、いくら議論を重ねてもかみ合わない。
私は山口県生まれなので、今回の下関会議の行方は殊更興味があった。下関は明治32年から近代捕鯨の基地という歴史もある。さらに遡れば、日本人は縄文時代からクジラを食べていたようだし、江戸前期には和歌山の太地で古式の捕鯨が始まっている。クジラは日本人の食文化として根付いているものだ。
確かに大きなクジラが小さな人間に無残にも切り刻まれている場面をみたら心が痛む。しかし私たち日本人はクジラを自然からの授かり物として感謝し、それを余すことなくすべて利用してきた。
肉、皮から内臓まで食糧としてはもちろん、脂肪は石鹸、ひげはテニスラケットのガット、はたまた人形浄瑠璃の操り紐まで。そして、山口県長門市にはクジラの墓まであり、民謡として鯨唄まで残っている。
私も土地柄、子供のときからクジラには馴染んできた。私が子どもの頃はまさに捕鯨がピークの60年代半ばから70年代に当たる。
一番の思い出は学校給食で月に一回ぐらい出される「鯨の琥珀揚げ」だ。クジラの竜田揚げのことだが、よくマリネされ味がついた鯨肉がとてもおいしく、お代わりはいつも奪い合いになった。いや、それよりも均等に分けることがその日の配膳当番の重要課題だった。
そして、夏休みに買う肝油。これは一日一粒でよいのだがジェリービーンズのように何個も食べたくて、夏休みの半ばにはすっかり無くなっていた。
祖父は尾のみの刺身を好んで食べていた。冷蔵庫からるいべ状の鯨肉の塊を出し、スライスしていく。それが少し融けると血が滴ってくる。さすがに子供の私はそれがいやで口にすることは無かったが、おばいけ(さらしクジラ)は好きだった。酢味噌で食べるあのホワホワとした感触は忘れられない。小さい頃嫌いだったベーコンのおいしさにもやがて分かるようになった。
私の知っている鯨料理はこんなものだが、今も、昔と変わらないように豊富に鯨料理があったなら、きっともっともっとおいしい食べ方にも巡り会っていただろう。
ここロサンゼルス近海ではクジラが南北に移動する時期にホエールウオッチングが盛んである。そのクジラを見て、おいしそう、食べたいと思う人は一人もいないだろう。でも古代からそれを食文化として受け継いで来た民族がいくつもあるということだけは理解して欲しい。
このまま捕鯨禁止が続けられ、かつて人が鯨肉を食べていたことさえ忘れ去られ、私が老婆で生きた化石となった頃、若い人から「えー、鯨を食べたことあるの?」と、まるでこの世で口にしてはならないものを口にしてしまった野蛮人、と思われるのだろうか。
さっか あきこ akikosk@webjapan.com
日本の一勝は、あまりいいことのなかった日本に久しぶりにすばらしい出来事でしたね。
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Zakkaya Weekly No.317
雑貨屋 店主 大西良衛 zakkaya@news.email.ne.jp