北岡和義さん
河合将介さん、憲法実践者の功
夕方になるとぼくはダウンタウンからトーランス向けて車を走らせた。当時、エプソンンの事務所はトーランス市役所の裏にあった。ぼくは河合將介さんを訪ね、いろいろ話を聞いた。
エプソンは諏訪精工舎のブランドだが、セイコー社と服部精工舎とエプソンの関係が良くわからず河合さんに解説してもらったことを今もよく覚えている。こうしたオフタイムが取材者のぼくにとって本音が訊ける絶好のチャンスなのだ。
底抜けに明るくざっくばらんで日本企業駐在員の雰囲気から抜けでていた。そんな河合さんからいろいろ教えてもらった。しかも定年退職した後もLAに残る、と聞いていたので河合さんはよほどアメリカ社会に馴染み溶け込んでいたのだろう。
河合将介、東京・墨田区生まれ。近くに諏訪精工舎があったことが影響したのだろう。大学を卒業すると諏訪精工舎に就職した。自分はドメスチック派と決め込んでいた河合が突然、シンガポール駐在を命じられた。腕時計のケース工場を立ち上げる任務だったという。入社8年目というからよほど会社の評価は高かったのだろう。
海外駐在経験のある人なら理解できると思うが、留学経験もない人材にいきなり海外駐在を命じることはよほど本人の能力、人柄が異文化、異言語社会に適している、と判断されることが選考の第一だと思う。
河合さんはシンガポールに8年勤務し、いったん本社に戻ったがその後、ロサンゼルスのエプソンに駐在した。もちろん市場はアメリカ社会であり、日系とかアジア系はごくマイナーな対象だった。エプソンがパソコンのプリンターでしっかり稼いでいることは間違いないようだった。
河合さんのものおじしない人柄はアメリカ人に受け入れられたようで、アメリカの会社で働く違和感は払拭されていた。
その河合さんが日本国憲法違反の判決を最高裁から勝ち取ったことを知るヒトは多くないだろう。ぼくらLA在住の日本人は海外に住んでいるため国政選挙で投票できないでいた。1993年6月18日、宮沢内閣不信任案が可決、細川護熙連立内閣が実現した時、多くの日本人が激動の政局に強く反応した。
同時に海外に住む日本人もまた急激に動いた政局に大いに刺激を受けたのである。LA在住の建築家・高瀬隼彦氏を中心に「海外在住日本人にも投票させよ」という運動を立ち上げ、日本の国会向けて運動を始めた。その仲間に河合将介さんが参加してくれたのである。
政治関係に関わりたくないビジネス駐在員をものともせず河合さんは「民主主義の実践」を標榜して立ち上がった。最高裁判決でぼくらが全面勝利するまで最後まで戦いの仲間として連帯してくださったのが、河合将介さんだった。
ぼくらは日系スーパーの入り口で署名活動を行った。河合さんは真っ黒に日焼けして熱心に署名を集めてくれた。衆議院議長、参議院議長、内閣総理大臣へと陳情活動は広がったが、多くは総論賛成各論反対で埒があかず、ついにぼくらは国を憲法違反で訴えた。
ぼくらの違憲訴訟は最高裁大法廷に回され、2005年9月14日、ついに違憲判決を勝ち取った。一人当たり5000円の賠償金も認める全面勝訴となった。河合さんは原告団13人のうち最後まで残って戦った原告団の一人だった。軸足のぶれない民主主義者だった。
河合将介さんの御霊に心から哀悼の真を捧げます。(合掌)
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田中利彦さん
河合さんご逝去のメールありがとうございました。長年にわたり多臓器不全でさぞ悔しい思いをされたことと思います。安らかに天国にておやすみなさい。
私は85年〜96年駐在、その間随分いろいろな方を紹介していただき充実した生活を送ることができました。河合さんは以前シンガポールにほぼ同時期駐在していたことを知りました。大変な勉強家で知識が豊富で人の面倒見の良い方でした。
来日の際には天麩羅屋さんとか根岸のちゃんこ料理やさん、あとは決まってカラオケ、彼の声は素晴らしかったです。もう彼と会うことは出来ないのが残念です。私は遠からず彼の後を追います。座席を取っておいてください。
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中條 石さん
河合将介さんとの出会いはLA赴任間もない1988年末頃に共通の友人の勉強会で知己を得、帰国する98年夏までの約10年、会社、業界も違うのに公私にお世話になりました。
その後、将介さんとは彼の訪日時、或は私の訪米時、LAで何度かお会いしましたがここ10年ほどは病を得てからそれもなく心配しておりました。
初対面の頃はお互いに親しく話すこともありませんでした。
しかし、幼少時代東京の下町台東区竜泉で私が一時期育ったこともあり同じく下町墨田区押上で育ったという将介さんと胸襟を開いたざっくばらんな交際までは時間の問題でした。それからは折あるごとにお会いしましました。
色々博識で地域への社会貢献にも積極的に参加されておりました。
代表的な一つに海外在住日本人が母国日本の国政選挙に憲法で保障されているにもかかわらず参加出来ないことに疑問を持ち、LAからの在外投票制度の実現をめざす運動の一員として参加され、特に94年夏からの街頭署名活動では中心的に大役をこなされました。
この署名は日本の国会、内閣、自治省その他の請願に利用され効果を上げたことは云うまでもなく、多くの方々の尽力と諦めることなく最高裁まで国を相手取り争い最終的に権利を獲得したことは大きなエポックでした。
カラオケが好きでよくカラオケバーにはよく行きました。
レパートリーも広くよく歌いました。
今私が使用している名刺の英文表記には、NO OFFICE,NO TITLE,NO MONEY & NO
WORRIESとありますがこれは将介さんのオリジナル。彼の了解の元拝借したもので、彼の人生観を十分表しているよう思います。
物知りで知的なばかりでなくユモアー、いたずら心にあふれておりました。
その昔、こんなことを2人で真面目に考えたりしました。
ダウンタウンフリーのフリーウエーを出たところによくホームレスが恵んでほしい旨と最に”GOD BLESS
YOU”と書いたボール紙を持って立っているが機会を見て汚い格好をして二人で立ってみようかというものでした。
日本人の我々は仏教信者なのだから“南無阿弥陀仏”とでも書こうかとか言いながら・・・。
それならいっそ親しい友人宅をノックしたらどういう対応するかやろうかというものでした。
今でも忘れられない将介さんの名言にこんなのがあります。
私に幸せとはどういうものかと聞いてきましたが答えられない私にこう言ってくれました。
“幸せは幸せと思う所に来るものであり、不幸と思う所には不幸しか来ない”ということでした。確かにそう思い、座右の銘にしております。。
将介さん、自分がこうして今あるのは社会に出るまで特に学生時代、成近兄貴たちが自分を犠牲にして経済的協力してくれたお陰で今日があるんだとよく云ってました。
98年夏、私の帰国に際し送別会を率先して発起人の一人として開いてくれました。
照れくさいので辞退しましたらこう言いました。
送別会と葬式は本人に関係なく廻りがするものだから黙って参加すればいいとの事。
多数の方々参加して下さった立派な宴でした。
将介さんのこの度の訃報には絶句。お世話になるばかりでした。
コロナ禍でもあるうえ葬儀にも遠路という事もあり参加はかないませんが今は、ご冥福をお祈りするばかりです。感謝
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若尾龍彦さん
雑貨屋の大支柱でもあった河合さんのご逝去にお悔やみを申し上げます。
河合さんは本当に心の広い人格者でした。
長年にわたりお世話になったことを感謝しつつ、心から哀悼の意を表しご冥福をお祈り致します。
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龍 翁さん
河合将介さんのご逝去を悼む
米国(ロサンゼルス)で暮らしておられた河合将介さんと東京に住む私(ペンネーム龍翁)が直接お会いしたのは、これまでに(将介さんが帰国された時の)2回だけ。それも、アメリカ時代から将介さんと親交が深かったお二人、中條 石(いわお)さんと、雑貨屋の投稿者・さくら つぼみ(ペンネーム)さんにご紹介されての脇役的位置づけで、それほど親密な関係ではなかった。したがって将介さんのプロフィールについてはほとんど存じ上げず、ただ、長野県諏訪市のご出身で某精密機械会社に勤められ、後年、同社のアメリカ法人に赴任、副社長で定年、退職された後、そのままロサンゼルスに留まり(移住?)、地元新聞や(さくら つぼみさんのご紹介で2007年から私も寄稿者の仲間入りをさせていただいた)「雑貨屋ウイークリー」に寄稿されたり、その「雑貨屋ウイークリー」の、もう1人の寄稿者(川柳作家)河合成近さんの弟さんでいらしたことぐらいの知識しかなく、いわば“雑貨屋ウイークリー執筆者集団”の先輩・後輩だけの間柄であった。
2回しかお会いしていなかったが、将介さんに対しては「人の気持ちを汲む人」「諸事に感動することが出来る人」「周囲の環境に順応しやすい人」「芸術的センスのある人」という印象が強かった。そして(彼の)早口言葉には驚かされた。まさに“立て板に水”、私は(失礼ながら)それを“機関銃話法”と呼んだ。しかし、早口というのは「頭の回転が早い」「豊富な知識の持ち主」ということになる。
「将介さんのプロフィールはほとんど知らない」と書いたが、実は1つだけ私と共通の趣味を持っておられたことを紹介しておきたい。それは「漢詩・詩吟」だ。私がかつて「雑貨屋ウイークリー」に我が郷土・豊後の国(大分県)日田の(江戸時代の)儒学者・教育者・漢詩人であった広瀬淡窓(1782年〜1856年)について書いた時のことだった。彼から「淡窓先生の作品(漢詩)は大好きです。私たち詩吟の会でも“淡窓漢詩”はよく吟じます」とのメールを頂戴したことがある。その後、李白・杜甫・菅原道真・阿倍仲麻呂・広瀬淡窓・頼山陽そのほか中国、日本の漢詩人の作品(漢詩)について意見(メール)交換をしたことがある。懐かしい思い出である。翁は、詩は吟じないが漢詩そのものは高校時代から愛好していたので将介さんとはウマが合った(とはいえ、将介さんの造詣の深さには及ばなかったが・・・)
将介さんのご逝去に際し、お兄様(成近さん)が「雑貨屋ウイークリー」1270号(9月13日)に寄稿された川柳「泣くもんか お前の笑顔が 好きだった」「半生を ロスで江戸っ子 そのままで」「さあ駆けろ 透析の管(くだ) もうないぞ」「線の風 だったか冷ややか 今朝の風」など弟を想う兄の愛情が私の胸を打った。そこで私も漢詩の友・将介さんのご逝去を悼んで、李白の詩『静夜思』を贈る。
静夜思(李白)
牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷
寝床の前で月光を眺める
白々とした灯りは まるで地上の霜
頭を上げて山上の月を眺め
頭(こうべ)を垂れ 後にした故郷を想う
<病床にあった時の将介さんのお気持ちをおもんぱかって、龍翁の強引な訳>
【離れられなくなったベッドに横たわり 窓辺の月の光を眺める
煌々と輝く灯りは まるで町のネオンサインだ
ベッドから頭をもたげ 更に傾く月影を追う
静かに目を閉じると 子どもの頃の故郷(諏訪)の思い出が
走馬灯の如く脳裏を走る】
河合将介さんのご冥福をお祈り申し上げます <合掌>
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井出英雄さん
河合さんが米国で過ごした理由
河合さんはカリフォルニアで駐在員として12年間働き、1997年60歳の定年に際しリタイヤ後の生活は米国で過ごすことを決めた。その経緯は雑貨屋1161号に掲載されているし、私も当時LAですぐ近に勤務していてお付き合いもあり直接話を聞いたことがありました。
河合さんが米国を選んだ理由はこうだ;
日本の場合、定年退職者に対する言葉は「ご苦労様でした。これからお達者に」と人生の舞台から去り行く人への慰労の言葉が中心。
一方米国では、リタイヤメントとは次の人生のスタートであり周囲の人たちが「ハッピーリタイヤメント」と祝福してくれる。
この格差が米国残留を決めた決定的要因だ、と述べています。
そしてご存知のように、常に前向きで、誠実、実直、用意周到、そして新しくて少し面白いものを常に準備し、趣味にもボランティアにもまさにハッピーリタイヤメントを実行した方でした。私は2008年まで様々な組織やイベント、呑み会、カラオケなどお付き合いさせて頂きました。河合ご夫妻は我々夫婦と同じく子供はいない。そんな共通点もあり色々と話し合ったものだ。後日、訪米中の私に闘病生活の中から電話を頂いた。体は弱っていても意気軒昂で変わらぬ信念に感服した。私より4歳年上で、兄のような存在だった。
河合さんは雑貨屋の主筆として長い間巻頭コラムを飾り、大きな足跡を残されました。
実兄である成近さんもエスプリの利いた川柳で共に紙面を充実させています。今回も;
さあ駆けろ 透析の管もうないぞ 成近
と悲しみを越えて弟を労わる一句を詠まれています。

自ら選んだ国で自分らしく第二の人生を楽しまれた河合将介さんに敬意を表し、私からも一句献上します。ちょうど河合さんが亡くなられたころ撮影した稲光の写真に句を入れました。
河合さん、遠雷のように声も聞こえましたし、暗い夜(世)に輝いていましたよ。
遠雷や望む加州に生きし友
(河合将介さんに捧げて)
井出半句
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ゲルマン喜子さん
河合さんの思い出
河合さんほど一緒にいて楽しい方はいませんでした。知識の深さも幅の広さも抜群でカラオケもびっくりするほど上手で研究熱心でした。
JBAからSBMSで長く活躍されて、その間雑貨屋、羅府新報への寄稿と精力的に活動されました。
私はこの雑貨屋のLAの観光スポットのお陰であちこちへ行き懐かしい思い出話が沢山あります。ハリウッドサインを背景に写真を撮ろうでは坂の途中の右側のピンクの家は元マドンナが住んでいた家だとかの説明があり、くねくねした坂を上りました。Millard
Canyon Falls では沢にある石を母と一緒にぴょんぴょんと飛び滝を見にいきました。
Lake
Balboaも河合さんのコラム知り、日本以外にここLAにいてもお花見が出来るのだと知り、とても嬉しかったです、それからは毎年訪れるようになりました。
又、Newport Beach のBalboa
Islandもこのコラムで見てあの5〜6分のフェリーにのり向こう岸に渡り素敵な家並みをみてびっくりしたものでした。
その他にはLAXを離着陸する飛行機をみる丘の案内をみてEl Segundoも何回も行きました。母が日本へ帰るたびに母をLAXで下したあとあの丘へ行き母の乗った飛行機が見えなくなるまで見ていました。
Descanso Gardens
も母を連れて行きトラムにのりました。きれいな椿の花がとえも印象的でした。サンペドロのターミナル島にもいきました、こんなに近くに住んでいても行ったことはありませんでした。沢山の日本人が昔は住んでいたというところなのに。でも鳥居があるのにはびっくりしました。
マンハッタン ビーチにあるSand
Dunes Parkにもびっくりしました。こんな場所にこんな砂丘があるあんて。河合さんのLAの観光スポットと母の思い出はいつも一緒にあります。
河合さん、本当に楽しい時間を提供して下さりありがとうございました。
ご冥福を心からお祈りしています。 |