龍翁余話(633)「芝公園と芝東照宮」
先日、偶然、テレビ番組『じゅん散歩』(レポーター・高田純次)の『芝公園散歩』を視た。思えば翁は『芝公園』や『芝東照宮』には一度も行ったことがない。愛車を運転していた頃は『増上寺』前やこの辺りを、しょっちゅう走っていたのに・・・番組で興味を魅かれたので)『芝公園と芝東照宮』散策を思い立った。緊急事態宣言解除後、コロナウイルス感染者が毎日増え続けている最中(都内の感染者107人を記録した日)ではあったが――
|
|
増上寺正門(三解脱門) |
大殿(本堂) |
地下鉄(都営浅草線)「大門」で下車。前日までは風雨の強い悪天候だった東京だったが、当日は打って変わって陽が肌を突き刺すような暑さ(30℃を超える真夏日)。電車の中ではマスクを着用していたが、地上に出てからは息苦しくなったのでマスクを外し、道路脇の自動販売機で買った冷茶ボトルをぶら下げて、まずは「「増上寺」に参拝。「増上寺」(浄土宗)は徳川家の菩提寺として有名。時代劇で将軍の“増上寺参詣”シーンを時々見ることがあるが、翁はそれより『忠臣蔵』を思い出す――元禄14年(1701年)3月、江戸下向の勅使(天皇の使者)の饗応役に任ぜられた赤穂藩主・浅野内匠頭が、指南役の吉良上野介にたびたび陰湿な仕打ちを受けた。その1つに勅使の“増上寺参詣”をめぐって勅使が休憩する増上寺宿坊の畳替えを上野介は指示せず、内匠頭は危うく失態を招きそうになった事件、これが3月14日の江戸城にての“松の廊下刃傷事件”の引き金となった(野口武彦著『忠臣蔵―赤穂事件』より)。“増上寺宿坊の畳替え騒動”は、数多い『忠臣蔵』映画の中でも重要なエピソードとして度々取り上げられる場面である。
さて『芝公園』は「増上寺」に隣接した所にある、と言うより(翁の印象は)『芝公園』は「増上寺」境内の観。それもそのはず『芝公園』一帯は、江戸時代には「増上寺」の境内であったそうだ。それが明治6年(1873年)に公園制定の太政官令によって一般公園として開放された日本最古の公園の1つであるとのこと(現在名称は『港区立芝公園』)。公園の広さは約13,500u、東京ドーム(約46,700u)のグラウンド面積(約13,000u)とほぼ同じだ。その中に「多目的広場」「バラ園」「花壇」「芝丸山古墳」(5世紀中期の築造、都内最大級の前方後円墳)「平和の灯」(港区の平和都市宣言のシンボル)などがある。幸いに当日の園内は人影はまばら。マスクを外したままでゆっくり散策することが出来た。
余談だが(翁が)東京タワーがよく見える多目的広場(写真左)の傍の木陰のベンチに腰をおろして冷茶を飲みながら休息していたら、関西なまりの男女6人の中高年の観光客が「うわー、ここは絵になる。皆で写真を撮ろうよ」と言って翁が座っているベンチの前に立ち止まった。暑いからか、観光客たちはマスクを着用していない。翁、急いでバッグからマスクを取り出し耳にかけた。1人の中年男性が翁に「すみませんが写真を撮って貰えませんか」とスマホを差し出した。「ああ、いいですよ」2カット撮影。スマホを返して翁、直ぐに殺菌ウエットティッシュで手を消毒。写真をチェックした彼ら、満足そうに翁に礼を言って歩き出した。翁は呟いた「熱中症とコロナに気をつけて、いい旅を」――
『芝公園』に隣接して、やや小ぶりの杜がある。それが『芝東照宮』だ。1617年(元和3年)創建。言うまでもなく主祭神は徳川家康。全国に38か所ある“東照宮”の中で、この『芝東照宮』は日光東照宮・久能山東照宮・上野東照宮に並ぶ格式を持つ東照宮だそうだ。境内に「天然記念物・大イチョウ」が聳えている。立看板に「1641年(寛永18年)に三代将軍・家光が植えた」とある。家光が将軍職に就いたのは1623年(20歳)、1641年と言えば家光38歳の時、この年、長崎・出島にオランダ商館を置き、我が国の鎖国体制を完成させた。それから10年後(1651年)に家光死去(48歳)。
東京は広い。知らない場所や知らない事が沢山ある。また、どこかへ出かけよう、“自粛”の合間、“コロナ禍”を掻い潜って・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |