龍翁余話(601)「ハワイ王国最後の国王・リリウオカラニ女王」(拡大版)
ハワイ州の国勢調査(2014年)によると、州人口約142万人、うち人種構成を見ると白人系33.6万人(24.7%)、フィリピン系19.7万人(14.5%)、3番目が日系18.5万人(13.6%)、以下ハワイアン系(5.9%)、中国系(4.0%)、韓国系(1.8%)、黒人系(1.6%)、サモア系(1.3%)となっている。日系1世の出身県は広島・山口・福岡・熊本・福島などが多かったそうだが、戦後、沖縄県からの移住者が増え、現在ハワイ日系人(18.5万人)の中で沖縄県出身者がかなりの数を占めている(ハワイ沖縄連合会には約4万人が所属しているそうだ)。
ハワイ・オアフ島の翁のゴルフ仲間の1人にDさん(78歳=ホノルルの元ホテルマン)という沖縄県出身者がいる。彼の話によるとウチナーンチュ(沖縄人)はハワイに特別の親しみを持っているとのこと。何故か――1429年(永享元年)に第一尚氏(だいいちしょうし)によって琉球国が成立、1879年(明治12年)まで450年も続いた“琉球王国”であったが、江戸時代初期(1609年=慶長14年、江戸幕府の許可を得て)薩摩藩は3000人以上の兵力で琉球を征服、薩摩藩は、それまでの琉球の権益(明国=中国との貿易権利)を搾取、これによって“琉球王国”は薩摩藩の属国にされ、内政・外交の支配権を奪われた。1879年(明治12年)に明治政府は(琉球を日本国にするため)、大量の軍隊や警官隊を送り込み、遂に“琉球王国”を滅ぼした(以後、沖縄県となる)。一方、1795年にカメハメハ1世(大王)によって成立した“ハワイ王国”は、1893年にアメリカ合衆国の傀儡国家(隷属国家)にさせられ、名目上は“ハワイ共和国”ではあったが1898年には“ハワイ準州”として併合され“ハワイ王国”は103年で幕を閉じた。その命運と琉球の悲哀の歴史が“沖縄人のハワイへの思い”に重なっているのでは、とDさんは言う。かねて“琉球王国”や“ハワイ王国”の歴史について少しばかりかじったことのある翁も、Dさんの見解には大いに共鳴するところがある。
翁は、1984年以来35年もの長きに亘ってハワイの日系人社会やハワイアンとの親交が続いており、その間“日系人移民史”と同時に、多少“ハワイ王国”の歴史にも触れて来た。実は、翁の今年のハワイ訪問の目的の1つに『ハワイ王国最後の国王・リリウオカラニ女王』研究があった。“研究”と言っても(多くの読者各位もご存知の)“ハワイ王国”の栄華と悲劇の舞台になった(アメリカ合衆国で唯一の宮殿)『イオラニ宮殿』と、リリウオカラニ女王の終の棲家『ワシントンプレイス』の見学を通して「リリウオカラニ女王とは、どんな人物であったか、“ハワイ王国”はどのようにして終焉を迎えたか」を再学習しただけのことだが・・・
“ハワイ王国”は1795年にカメハメハ大王がハワイ全島を統一して成立。2世と3世はカメハメハ大王の息子、4世と5世は大王の孫(ここでカメハメハ大王直系の王は終わる)。第6代の国王ルナリロはカメハメハ1世の直系ではないが、カメハメハ1世の異母兄弟の孫だから王族の一員ではある。彼は「いつまでもカメハメハ一族がハワイを支配するのはおかしい、国王は国民が選ぶべきだ」という民主主義思想の持ち主。そこで“ハワイ王国”初の国王選挙が行なわれ、(次の国王となる)カラカウアとの選挙戦に勝利したものの肺結核に罹り、在位1年でこの世を去る。続いての選挙でカラカウアが第7代国王に選出される。カラカウア(1836年〜1891年=国王在位1874年2月〜1891年の17年間)はカメハメハ一族外の人物。彼は、ハワイの経済基盤づくりのためアメリカ合衆国との経済交渉を積極的に行なう一方、移民問題を学び、また外交を広げるため1881年サンフランシスコ・日本・中国・シャム(タイ)・ビルマ(ミャンマー)・インドほか、欧州・アフリカ10か国を歴訪。国家元首としては最初に日本を訪問したのはカラカウア王。明治天皇に拝謁の際、ハワイへの日本人移民とカラカウアの姪・カイウラニ王女と山階宮定磨王(のちの東伏見宮依仁親王)の政略結婚を要請した(結婚話は日本政府によって却下)。アルコール依存症だった(と噂されていた)カラカウアは1891年1月29日に入院先のサンフランシスコで死去(享年54)。彼の死後、“ハワイ王国”最後の国王となったのはカラカウアの実妹で当時53歳だったリリウオカラニ(1838年〜1917年)。
ホノルル生まれのリリウオカラニは、幼少から西洋式教育を受け、兄・カラカウアに次ぐ西洋通と言われていたが、ハワイの伝統に強い誇りを持ち、ネイティブな言葉(ハワイ語)を大切にし、音楽的・文学的才能にも恵まれた才女であった。かの有名な『アロハ・オエ』をはじめ165以上の曲を作ったそうだ。
リリウオカラニは女王として国王即位後、非常な人気を呼んだ。それは彼女の「ハワイ王国はハワイ人のための国家である」という政治姿勢が“王政派”の支持を受けたからだ。ところが面白くないのが“共和制派”。“共和制派”とは、カラカウア国王時代、ハワイの砂糖業が盛んになるにつれアメリカ系白人(商売人・政治家など)の入植者が増加、彼らはサトウキビ農場主らを抱き込んで“ハワイ連盟”(武装勢力)を結成、カラカウアに退位を迫まったり、国王の権限縮小、ハワイ人・アジア人の選挙権剥奪など無謀な憲法(銃剣憲法)を無理矢理発布するなどした政治結社。カラカウアはこの反体制派にほとほと手を焼いたそうだ。
カラカウア国王が死去して直ぐにリリウオカラニが王位継承、その2年後の1893年1月16日、アメリカの軍艦がホノルルに侵攻、無差別に多くのハワイ先住民を虐殺、“王政派”200人を拘束、リリウオカラニ女王も捕えられ、王位放棄を迫られた。女王は“王政派”200人とハワイ人の命を守るため退位を決意、でっち上げの罪に問われ『イオラニ宮殿』に幽閉された。替わって“共和国臨時政府”が樹立、海外の数か国は臨時政府を承認したが、“王政派”を支持する日本(明治政府)はアメリカ海軍の武力による王国破壊に不快感を表明し、邦人保護の名目で東郷平八郎(のちの日本海海戦で世界に名を轟かせた名提督)率いる軍艦2隻をハワイに派遣、ホノルル港に停泊させクーデターの一味とそれを支援するアメリカ海軍を威嚇した。リリウオカラニ女王を敬愛する多くの“王政派”(ハワイ人)やハワイ入植者の日本人も涙を流して歓喜したそうだ。しかし、間もなくリリウオカラニ女王は『イオラニ宮殿』から追放された。
追放されたリリウオカラニ女王の住まいは『イオラニ宮殿』からわずか200mほどしか離れていない『ワシントンプレイス』(ここが女王の終の棲家となる)。実は『ワシントンプレイス』はリリウオカラニ女王の夫ジョン・ドミニス2世の実家であった。つまり、この白亜の殿堂を建てたのはジョン・ドミニスの父親ジョン・ドミニス1世(アメリカ人富豪の貿易商)だった。(『ワシントンプレイス』の名はアメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンの名にちなんだもの)なお、ドミニス2世とリリウオカラニは幼馴染、結婚したのは1862年、リリウオカラニ24歳の時。したがってリリウオカラニにとっては(この家は)“夫との思い出の館(やかた)”と言うことになる。(夫ドミニス2世は、リリウオカラニが国王に即位した7か月後に死去。)
『イオラニ宮殿』を追われ傷心のリリウオカラニではあったが、彼女は『ワシントンプレイス』を愛した。“夫との思い出の館”であるばかりでなく窓を開ければ『イオラニ宮殿』が見える。
彼女の自叙伝の中に「ワシントンプレイスは、まるで宮殿と同じような住まいで、内部の調度(日常生活に必要な道具・家具など)も素晴らしいし周辺の環境も心地いい」と記されている。
確かに(邸内には)女王の寝室、豪華な晩餐室、女王愛用のピアノや女王葬儀の際に使われたカヒリ(ハワイ語=鳥の羽をまとめ細長い棒に縛り付けた“王族のシンボル”)などが展示されており宮殿と同じような雰囲気が漂っている。また庭園には、リリウオカラニが作詞・作曲した名曲「アロハ・オエ」の歌碑が建てられている。ハワイ語と英語でその歌詞が刻まれた歌碑は、柵の外(道路)からも見ることが出来る――
ともあれ、リリウオカラニはその後も旧女王としてハワイ人の敬愛を受け、1917年11月11日、79歳でこの世を去った。翁が『イオラニ宮殿』と『ワシントンプレイス』を訪れたのも女王没102年目の祥月命日であった。庭の樹木を聖木に見立て、リリウオカラニ女王のご冥福を祈った。なお、ハワイがアメリカの50番目の州となったのは、女王の死から42年後の1959年8月21、つい60年前のことである・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |