龍翁余話(599)「羽田空港国際線旅客ターミナル」
『羽田空港国際線旅客ターミナル』は、2010年(平成22年)10月に使用開始されてから丸9年が経ったので、今更、紹介することもあるまい、と思っていたら、先日の翁たちのシニア会で出席者のうちの誰かが「龍翁さんのハワイ旅行は成田からですか?」と訊いたので翁「以前は成田のメンバーコースで(朝から)ゴルフをして、シャワーしてから自分の車を“パーキング業者”に預け、夜7時台のデルタ航空で成田から出発していたのですが、5年前から羽田からにしました。羽田は我が家から近いのでいいのですが、ハワイアン航空の出発が夜中(23時55分)なので時間調整がちょっと大変です」と答えたら(出席者7人のうち)何と「羽田空港国際線には一度も行ったことがない」が3人、「一度行ったことがあるが、詳しくは知らない」が1人、つまり4人が「知らない」と答えたので、今号の『余話』はシニア会のメンバーのために『羽田空港国際線旅客ターミナル』の概要を紹介することにする。
羽田空港がオープンしたのは1955年(昭和30年)、国際線も当初から発着していた。が、当時の日本人は誰も彼もが自由に海外旅行が出来る時代ではなかった。だから羽田空港の“赤い絨毯“の上を歩くのが当時の日本人は夢であり憧れだった(海外渡航者は必ず”赤い絨毯“の通路を通っていたから)。日本人の海外渡航がやっと自由化されたのは1964年(昭和39年)の4月のこと。そう、その年の10月に東京オリンピックが開催、その少し前の8月に首都高速1号線(羽田線)、9月に浜松町〜羽田空港間の東京モノレールが開通、更に(東京オリンピックの直前)10月1日に東海道新幹線が営業開始した。余談だが翁が羽田の”赤い絨毯“を踏んだのは1973年(昭和48年)の秋、初めてのヨーロッパ6カ国取材旅行だった。その旅行の途中で第4次中東戦争(1973年10月にイスラエルとエジプト・シリアなどアラブ諸国との間で行なわれた戦争)が勃発、アラブ産油国が石油輸出を停止したことによる世界的オイルショックで、日本でもトイレットペーパーや石油製品の買い占め騒動が起こった年でもあった。
話を戻そう――1978年(昭和53年)5月の成田国際空港開港を機に、羽田空港の国際線航空会社のほとんどが成田へ移転、羽田空港に残った国際線はチャイナエアライン(台湾の中華航空)だけ。それも2002年(平成14年)4月には成田に移転し、その時点で羽田空港の国際定期便が終了した。その後、2003年(平成15年)11月に羽田―ソウル、2007年(平成19年)9月に羽田―上海、2008年(平成20年)4月に羽田―香港、2009年(平成21年)
10月に羽田―北京、いずれも(定期便ではなく)チャーター便が就航した。そして『羽田空港国際線旅客ターミナル』が誕生したのは、2010年(平成22年)10月だった。
さて、『羽田空港国際線旅客ターミナル』の3階には出国手続き(チェックイン)をする各航空会社のカウンターがズラリ(日本の航空会社を含めて38社)。そこからエスカレーターで4階に上がると江戸の街並みを再現した「江戸小路」が左右に展開、外国人が日本の風情(江戸の街並み)を楽しむばかりでなく日本人にとっても“郷愁”にかられる雰囲気である。このフロアーには食事処、土産店、本屋、薬局、キャラクターグッズ、コンビニ、軽食喫茶など全部で44のショップが並んでいる。
外国人が喜ぶもう1つの“江戸”は、4階と5階を結ぶ“檜の橋”「はねだ日本橋」である。
江戸時代、旅の始発点は日本橋だった。その日本橋が『羽田空港国際線旅客ターミナル』に出現した。羽田から出発する旅人の“安全への架け橋”に思える。そして若い人に人気のあるスポットは「プラネタリウムカフェ」だ。食事やお茶をしながら夜空・星・海・花・宇宙など非日常を味わうことが出来る空間だそうだ。(実は翁、「はねだ日本橋」と「プラネタリウムカフェ」には1度も行ったことはない(いずれも“資料”情報)。
世界から日本にやって来た人々、日本から海外へ飛び立つ人々が行き交う場所、それが日本の空の玄関『羽田空港国際線旅客ターミナル』だが、今は単に“旅の空気感”が溢れるだけでなく、テーマパークへでも行く気分が楽しめる場所でもある。翁たちのシニア会、いつか『羽田』で、を提案してみよう・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |