龍翁余話(579)「築地散歩」
先日、所用で銀座に行ったついでに「旧築地市場は今、どうなっているのだろう」と思い、築地まで足を延ばした。(『築地散歩』と言っても『旧築地市場』と『築地本願寺』の2か所へ行っただけだが)。ご承知の通り「築地」とは埋立地のこと。江戸時代の大火(1657年の明暦の大火)の時に焼失した『浅草御門・西本願寺』の代替え地として現在の場所が埋め立てられ『浅草御門・西本願寺』は『築地本願寺』と改称、周辺には各宗派の寺院や墓地が次々と建立され、築地はあたかも寺町のようだったと伝えられている。幕末には勝海舟(当時軍艦奉行)らによって軍艦操練所が設置され、明治維新後、築地鉄砲洲(今の湊から明石町)に外国人居留地が設けられアメリカンスクールも建った。慶應義塾大学の創設者・福沢諭吉が蘭学塾(慶応義塾)を開いた場所でもある。なお、1894年(明治27年)の日清戦争、1904年(明治37年)の日露戦争以降、1945年(昭和20年)に大東亜戦争(太平洋戦争)が終わるまで、築地は主に海軍要地として使用された。そんな歴史を振り返りながら、まずは『旧築地市場』へ向かう。
『旧築地市場』が1935年(昭和10年)にこの地で開場して以来、昨年10月に閉場するまでの83年間、まさに“日本の台所”を支え続けた世界最大級の(水産物・青果物の)総合市場であった。市場は「場内」・「場外」のエリアに区分され(上写真右=市場の裏側から撮影)、左側の「場内」では、仲卸業者は競りで落札した生鮮食品などを場内の自分たちの店で(魚屋や寿司屋など)業者向けに販売していた。昨年10月に豊洲市場へ移る時点での仲卸業者数は水産部門541店、青果部門97店、関連業者(飲食店など)149店だった。豊洲移転後は急ピッチで解体工事が行なわれている(上写真左)。一方、右側の「場外」は(場外の入り口にあたる)「もんぜき(門跡)通り」(下写真左)から路地に入ると(一般向けの)卸売店・小売店・飲食店などがぎっしり(築地場外市場商店街振興組合には現在約300店が加盟)。迷路のような狭い路地(下写真右)をウロウロしていると、あちこちで威勢のいい“黄色い声”が飛び交う。ここでは“粋な男衆”ではなく、”小粋な女衆“が主役のようだ。それにしても“世界の築地”はいまだ健在、外国人の多いのに驚いた。なお、東京都では『旧築地市場』跡地の活用案として、東京五輪・パラリンピックの輸送拠点、国際会議場・展示場、高級ホテル、(食文化の1つ)水辺のレストランなどを計画している。
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『築地本願寺』(京都・西本願寺の直轄寺院)は、『旧築地市場』(場外)から晴海通りを渡った直ぐ近くに位置する。古代インド様式をモチーフとした建物が特徴的だ。翁が参拝した時は、誰でも焼香出来る時間帯だったので翁も(基本的な作法に従って)焼香した。その後、(境内の)本堂に向かって左側にあるインフォメーションセンターに立ち寄って資料を読む。「現在の本堂は1934年(昭和9年)に竣工、東京帝国大学工学部・伊東忠太名誉教授の設計による(重要文化財)」とある。
翁は以前から伊東忠太(1867年〜1954年、出羽国米沢出身)の名を知っていた。平安神宮・宮崎神宮・明治神宮・上杉神社(米沢市内にある謙信を祀る神社)・靖国神社遊就館などの設計者で明治から昭和にかけての建築界の第一人者。幼少時より”天童“と呼ばれ、5歳にして「興譲館」に入学。「興譲館」とは1697年(元禄10年)に建立された米沢藩の藩校、現在の山形県立米沢興譲館高等学校のことで公立高校としては日本最古だそうだ。「伊東忠太」と翁は直接には関係ないが、米沢市や靖国神社に縁のある翁にとって彼の名はやはり記憶に留めておきたい。
さて、はなはだ急ぎ足の『築地散歩』であったが、少しだけ今の築地を知ることが出来た。
『旧築地市場』の“場内エリア”は、2020年には大きく生まれ変わっていることだろう。それはそれで結構なことだが(翁、個人的には)“場外エリア”はそのまま残しておいてもらいたいと思っている。あの狭い、あまり綺麗とは言えない“ごちゃごちゃエリア“であっても、それなりに昭和の庶民食文化の匂いが漂っていて、翁は好きだ。外国人観光客も多分、その雰囲気を味わいたくてやって来るのだろう。よし、では翁も次の機会に”一膳飯屋“で昼食を・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |