龍翁余話(563)「啓蟄(けいちつ)と菰(こも)はずし」
先日、浜松町で所用を済ませた後、JR浜松町駅に隣接している都立『旧芝離宮恩賜庭園』に行った。長年、東京に住み、数えきれないくらい浜松町を往来しているのに、この庭園に入ったのは初めてだ。入園料70円(一般150円)を払う。シニア料金とは言え、今時、70円とは申し訳ないような、嬉しいような気分で散策を開始する。
入り口で貰った案内チラシによると『旧芝離宮恩賜庭園』は徳川第4代・家綱時代の中頃(1677年〜1698年)幕府老中を務めた大久保忠朝(おおくぼ ただとも=肥前唐津藩主・下総佐倉藩主・相模小田原藩主)の上屋敷に作庭した大名庭園を起源とする回遊式庭園。その後、持ち主の移り変わりを経て1875年(明治8年)英照皇太后(えいしょうこうたいごう=孝明天皇の女御、明治天皇の嫡母)の別荘として皇室が買い上げ、翌年(明治9年)に『芝離宮』と命名。1891年(明治24年)迎賓館(洋館)を建築、1897年(明治30年)1月11日に英照皇太后が(満62歳で)崩御された後も迎賓庭園として使用されたが、1923年(大正12年)の関東大震災で建物や樹木のほとんどが焼失。翌年(大正13年)1月、大正天皇の第1皇子・裕仁(ひろひと)皇太子(昭和天皇)と久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう=皇族・陸軍大将)の第1女子・良子(ながこ)女王(香淳皇后)のご成婚記念として東京市(現・東京都)に下賜され、庭園の復旧整備を施して同年4月に『旧芝離宮恩賜庭園』として一般開園、1933年(昭和8年)に国の史跡指定を受ける――と説明されている。
 |
 |
面積43,175u(約13,000坪)、近くの浜離宮恩賜公園250,215u(約75,690坪)に比べれば5分の1弱の小さな庭園だが、庭の要(かなめ)となる「大泉水」(昔は海水を引き入れた潮入りの池だったが現在は淡水池)の中に大小4つの島が配置されており、「大泉水」を取り囲むように西湖堤・石組み・中小の山(丘)などバランスの取れた落ち着きのある優雅さを醸し出している。都の資料によると年間の來園者数は、昭和時代の後半は5,6万人程度だったが平成に入ってからは次第に増加、近年は18万人を超え、外国人来園者も年間2万人を数えるそうだ。肌寒い当日の午後、来園者はほんの数組。翁、暖かい缶コーヒーをポケットに突っこんで“暖”を取りながら、ゆっくり大名気分を味わう。
今を盛りの梅林に入る。紅白20数本しかないこじんまりした梅林だが、独り占めの鑑賞は格別だ。梅の花言葉「優美」(紅梅)「気品・澄んだ心」(白梅)にちなんで翁、1句詠む。
<清(す)みし色 かぐわしき香に 酔ひしれて しばし我が身に 映へる梅花>――
梅も桜も草花もいいが、日本庭園の主役は何と言っても「松」だろう。長寿の象徴である常緑樹の「松」には昔から“神が宿る”とされ、神がその木に宿るのを“待つ”ということで「まつ=松」になった、と言う説がある。能舞台の背景の板を“鏡板”と言い、必ず「松」が描かれているが、この「松」は、舞台の正面先に(神が宿る)“影向(ようごう)の松”があると想像して、その松が舞台に反射し、演じる能狂言を見守る、という意味があるそうだ。
『旧芝離宮恩賜庭園』には220本の松が植えられており、どの木にも『菰(こも)巻き』が施されていた。“菰”とは、マコモ(イネ科の多年草で沼地に群生、高さ2mにもなる)を粗く編んだムシロのこと。現在はワラを多く用いているそうだ。この『菰巻き』は江戸時代から大名庭園で行なわれて来たが、近年ではどこの公園・庭園・松林でも晩秋から向春(3月)まで『菰巻き』をするようになった。害虫のマツカレハ(マツケムシ)を駆除するためだ。害虫駆除の効果の程は知らないが、これも“冬の風物詩”の1つだろう。
3月6日は『啓蟄(けいちつ)』。『啓』は“ひらく”、『蟄』は“土の中で冬ごもりをしている虫”のことで大地が暖まり冬眠していた虫が春の訪れを感じ穴から出て来る。この『啓蟄』の関連行事として『菰(こも)はずし』がある。『旧芝離宮恩賜庭園』の『菰はずし』は3月1日から始まるそうだ。3月は“弥生”――草木が生い茂り、生あるものすべてが本格的に活動を開始する月。翁もそろそろ、と思うのだが、高齢で寒がり屋の翁の『啓蟄』は、もう少し先になりそう・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |