私は当地ロサンゼルスを中心とする日系バイリンガル新聞である羅府新報の『磁針』欄に、ほぼ月一度寄稿をしています。ここで磁針寄稿250回を迎え、これまでの寄稿文を整理しています。
ほとんどの文章は当、雑貨屋ウイークリーに投稿しているコメントですが、『磁針』のほうはロサンゼルスを中心に滞在している日本人や日系人を対象にしており、また紙面の都合上、文字数に制限があり(860文字)、雑貨屋用とは若干ニュアンスが異なった書き方、内容になっています。
そこで過去の磁針寄稿文をここにも連載させていただき、ご参考に供します。
『 宣戦の詔書を読む
』(羅府新報2002年12月度掲載)
今年も12月7日(日本は8日)が巡ってくる。日本が米国及び英国に戦いを宣してから62年の歳月が経過したことになる。
これらの悲劇的な期間は、実際に体験し、苦痛と辛酸を味わった人々にとっては耐えがたく忘れられない時であったことは言うまでもない。が、一方、日本の若者層にとっては、どうも単なる空白の期間でしかないようだ。
私の知っている限り、当地に来ている日本からの留学生達は概して真面目でよく勉強する若者ばかりだが、こと祖国の現・近代史に対しては無関心、無知識な人が多く驚くばかりだ。これも戦後の教育の不備がなせる結果と言えるのではないだろうか。
確かに現代の若者は昔と違い、情報技術、バイオ、遺伝子など学ぶことが多く、歴史にまで気を使っていられないのかもしれないが、人間は歴史から学ぶことで進化したとも言え、歴史を無視して前進はないはずだ。
私は日本の現・近代史に関しては、まず時の天皇の発した「詔書」に関心を持つことにしている。
なぜならば、その内容の是非はともかく、詔書こそ時の日本と言う国家の立場と意図を表現した最高の公文書であるからだ。そして今の私達は詔書を客観的に読み直し、吟味し、評価することが出来る時代に生きている。
幸いなことに今はインターネットで過去の詔勅の類も簡単に入手できる時代になってる。
先日、私は仲間内の勉強会で「対米英開戦の詔書を読む」というテーマで話をさせてもらった。
今更「天佑ヲ保有シ萬世一系ノ・・」でもあるまいと言われるかもしれないが、わずか八百文字にも満たない詔書の一言一句に計り知れない歴史が凝縮されているのを知ることが出来るからだ。
開戦から62年(日中戦争から66年)、そろそろ一切の政治的意図を排除した、事実に沿った客観的な歴史としての現・近代史を次の世代に伝えてゆく時ではないだろうか。
それとも歴史とはそもそも国益、政治と表裏一体で「客観的事実」などしょせん絵に描いた餅なのだろうか。 |
河合 将介( skawai@earthlink.net ) |