龍翁余話(533)「第3台場」
翁“お台場”には幾度も行っているのに『第3台場』に“上陸”したのは初めてだ。「ゆりかもめ」の「お台場海浜公園」からレインボーブリッジに向かって(翁の足で)20分くらい歩くので(今まで)敬遠していたが、このたび“故”あって気温33℃の炎天下の先日、熱射病に罹らないよう注意を払いながら“敢行”した。その“故”とは――
最近、友人から借りた本(日本の国防に一生を捧げた韮山代官)『江川太郎左衛門の生涯』
を読んで(改めて)“台場の歴史”に触れ、急に行きたくなったからだ。著者がまたユニークな人だ。堀内永人(1930年静岡県掛川市出身)、銀行マンや会社経営を経て74歳の時、(2005年)日本大学大学院博士課程修了、77歳から作家人生に入り、『江川太郎左衛門の生涯』を書き上げたのは2013年だから、歴史作家としては“古い新人”だ。この作家の著書には、ほかに『家康と凧狂いの右近』(遠州菊川の義人・中条右近太夫物語)などあるが、それらはいずれかの機会に紹介するとして、今号は『第3台場』に特化する。
『第3台場』に入る前に、『江川太郎左衛門の生涯』に描かれている“台場の歴史”の概要に触れておこう。今から165年前の1853年(嘉永6年)7月14日、ペリー率いる黒船が浦賀に来航、徳川幕府に対して開国を要求。時の将軍(第12代)家慶は黒船来航の19日後に病死、家定が第13代将軍となるも彼もまた病弱。正室となった篤姫(天璋院)の助力虚しく幕政は(ほとんど)井伊大老が牛耳る。当時、国内は開国派・尊皇攘夷派が厳しく対立、(その衝突・混乱は明治維新まで続くのだが)井伊は天皇の許可なく開国を受け入れた。それはさておき、かねてより日本の海防対策の必要性を幕府に上申していた韮山代官・江川太郎左衛門(諱・英龍=ひでたつ)に対し、幕府は江戸周辺の海岸に“台場“(砲台場)の設置を命じた。彼は当初、観音崎、富津、品川沖での台場建設を提案したが、幕府は財政困難の理由で品川沖(案)のみ採用、それも江川計画では11場建設だったが(やはり財政難に阻まれて)6台場だけが完成。結果的にそれらの台場が火を噴く事態は起きなかったし、明治以降、第3、第6の台場跡を残すのみで、あとの4台場は完全撤去された。
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さて、レインボーブリッジ(写真)の真下、左の島が『第6台場』(立入禁止)。右の島が『第3台場』(国の史跡)――約100mの並木道(写真左)を行くと、まず目に入るのが、台場を囲む石塁(石垣)(写真中)。
海面からの高さは5m〜7mあるそうだ。台場の形状はほぼ正方形(1辺の長さ約160m)で真中(土塁の内側)が擂り鉢の底(写真右)、総面積は29,752u(約9000坪)、東京ドームのグランド面積の1.3倍と資料に書かれている。
まず、土塁(土手)を歩く(写真左)。途中にカノン砲台跡(レプリカ)が置かれている(写真中)。かつては南東・南西に5門ずつ、北東・北西に4門ずつ設置されていたそうだ。土塁を1周して擂り鉢の底に降りると中央にかなり広い陣屋(兵舎)跡(写真右)。土塁側の茂みの中に水飲み場跡(写真左)や水槽跡(写真中)、近くに調理場らしき跡(写真右)。
茂みに隠された弾薬庫跡(下写真左)が擂り鉢底の周りに5か所。そして砲台の真下に設置された“かまど“(下写真中)。翁の想像だが、この”かまど“は、いつでも大砲に着火出来るよう四六時中(火を)燃し続けていたのではあるまいか。その”かまど“の傍に兵士たちの詰め所跡(下写真右)――あまりの暑さに、写真を撮るのが精いっぱい。急ぎ足の(おおざっぱな)説明で終わるが、21世紀の今なお江川太郎左衛門の”海防の精神“が顕彰されていることが嬉しいではないか・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |