龍翁余話(528)「乃木将軍、大義に殉ず」
夏日に近い五月晴れの某日『旧乃木邸』が一般公開されたので見学に行った。『旧乃木邸』とは、日清・日露戦争を戦い、明治天皇大葬の日(1912年=大正元年9月1日)、静子夫人と共に自刃(殉死)した陸軍大将・乃木希典将軍の私邸――東京・赤坂南青山1丁目の(東京メトロ)千代田線・乃木坂駅を降りると直ぐの所に在り、翁はまず隣接の乃木神社に参拝して『乃木公園』に入る(写真左)。園内の「瘞血(えいけつ)之処」(ご夫妻が自刃した際に血で染められた衣類などを埋めた所)(写真右)に黙禱を捧げ邸宅へ向かう。
途中、「厩舎」(明治22年築)(写真左)や「乃木大将と辻占売少年像」(写真右)のほかに、「水師営のナツメの樹」(3代目)、「乃木大将お手植えの月桂樹」「乃木大将の歌碑」などがあるが(それぞれの物語はいずれかの機会にさせていただくとして)早速、邸宅内に入る。
現存する家屋(写真左)は乃木大将自らの設計により1902年(明治35年)に新築されたもの。明治期の将官の邸宅は接客を目的とする豪華な建物が多かったのに比べ、乃木邸の外観は黒塗りの板張りで飾り気がなく、内部も極めて簡素かつ合理的に造られており、明治期の和洋折衷建築としてもかなり貴重な建造物。そして「ご夫妻自刃の部屋」(写真右)。館内は撮影禁止なので外回廊から撮影したが、ご夫妻の最期のご様子が偲ばれて直ぐには
シャッターを切ることが出来なかった。ここでも、しばらく黙祷。ほかに「大将の部屋」、「夫人の部屋」、「応接間」、「食堂」などがあるが、これらもスペースの都合で割愛。
さて、『乃木大将』が何故“世界的な名将”と称賛されるようになったか――「それは乃木希典の本文である至誠・大義を重んじる武士道精神のゆえんである」と中西輝政・京都大学名誉教授は著書『乃木希典――日本人への警醒』の中で述べている。“乃木の武士道“を物語るエピソードがある。♪旅順開城 約成りて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ 水師営(作詩・佐々木信綱、作曲・岡野貞一)(『水師営の会見』)
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(乃木希典将軍) (2列目中央左が乃木将軍、右がステッセル将軍=水師営にて)
1904年(明治37年)2月8日から翌年9月5日までの1年7か月間、満州(中国東北部)・朝鮮の支配権をめぐって日本とロシアが戦った『日露戦争』で乃木大将は第3軍司令官として「旅順攻囲戦」(203高地攻略)の総指揮を取り、日露双方合わせて約9万人の死傷者を出すほどの激戦の結果、ロシア軍が降伏、直ぐに水師営(駐屯地=現在の遼寧省大連市旅順)で降伏文書調印。その記念写真撮影の際、(通常、降伏した側には帯剣は許されないが)「武士の名誉を重んじる」として乃木将軍は、敵の将軍ステッセル以下全将校に軍装・勲章・帯剣を許した。そのことが各国に報道され「サムライ・ノギ」の名が世界に轟いた。
“武士道”を好む明治天皇は、そんな乃木と(臣下ではなく)親友として接した。乃木もまた明治天皇を深く敬愛した。『日露戦争』後、乃木は(明治天皇の要請で)学習院長を兼ね皇族及び華族子弟の教育に従事。明治天皇拝謁の機会を(頻繁に)得た。そして1912年
(明治45年)7月30日、明治天皇崩御に際し乃木は殉死の決意を静子夫人に告げた。(冒頭に述べた)明治天皇大葬の日(1912年=大正元年9月1日)、ご夫妻は皇居遥拝の後、夫人は懐剣で胸を刺し、乃木は軍刀で割腹、最期まで武士道を貫き通した。乃木大将の多くの遺訓の中で翁が好きな言葉は「己れを虚しゅうして大義に殉ずる」(私利私欲を捨て謙虚にして天下国家のために尽くす)――この言葉、今の国会議員たちに聴かせてやりたいが、果たして彼らに“聴く耳“が有るや無しや・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |