龍翁余話(491)「“だらだら祭り”と“め組の辰五郎”」
地下鉄の都営浅草線「大門」の近くにひっそりと構える社(やしろ)『芝大神宮』(通称:芝神明)がある。“ひっそり”ではあるが、その歴史は長く格式は高い。今から1012年前の1005年(平安時代前期)に創建、主祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)と豊受大神(とようけおおかみ=食物・穀物を司る女神)。お二人の神様は、いずれも伊勢神宮の内宮・外宮の御祭神であるから『芝大神宮』は、古くから“関東のお伊勢様”と尊称され東海・関東、東北地方の善男善女から崇敬されて来た(と、由緒に書かれている)。
この大神宮の秋の例大祭『だらだら祭り』が有名だ。“だらだら”とは、気がたるんでダラダラする、という意味ではなく毎年9月11日から21日までの⒒日間も続けて祭礼を行なう“日本一(期間の)長いお祭り”であるから(江戸時代からそう言う名称だった)とのこと。それにしても、翁は“だらだら”は好まない、もっと別の気の利いたネーミングはなかったのだろうか――ある。『だらだら祭り』の期間中に“生姜市”が立つので『生姜祭り』とも言う。その名のほうがいい。生姜は香辛料(薬味)、魚の臭い消し、風邪退散や厄払いの妙薬。我が国には2〜3世紀頃、中国から伝わり奈良時代には栽培が始まっていたとのこと。『芝大神宮』創建(平安時代)以降、明治に至るまでこの一帯は生姜畑が多く、生産期にはいつも神前に生姜が供えられ、祭礼期間中は参拝者に生姜が売られていたそうだ。現在でも全国各地の生姜生産者からの奉納があり(写真左)、祭りの期間中は授与所で神明生姜が売られ(写真中)、お社に上がる石段の左脇に“生姜塚”の石碑まで建っている(写真右)。(石碑建立の謂われは、翁は知らない。)
ところで、時代劇好きの翁、『芝大神宮』で思い出すのがテレビドラマ『暴れん坊将軍』に欠かせない登場人物“町火消・め組の組頭・辰五郎”(後に江戸町火消・いろは四十八組の総元締となる)。江戸時代“火事と喧嘩は江戸の華”と言われるほど(江戸は)火災が多かった。江戸時代初期、幕府はまず“武家火消”を制度化し、中期(1720年)には町奉行・大岡越前守忠相が8代将軍吉宗の命を受け本格的な町火消制度を発足させた(“享保の改革”の一環)。“いろは四十八組”の中で“め組”は『芝大神宮』を中心に現在の芝大門・芝1〜3丁目、芝公園・増上寺周辺・芝金杉町・愛宕町・虎ノ門・浜松町・三田・新橋一帯を担当した。“め組の辰五郎”を有名にしたのは『芝大神宮』境内で芝居見物中、ささいなことで相撲取りと大喧嘩、死傷者まで出した。1805年(文化2年)辰五郎22歳の頃だったとのこと。後に『め組の喧嘩』として講釈や歌舞伎に扱われるようになった。大門通りの歩道脇に『め組の喧嘩』を描いた石碑がある(写真左)。
そのほか『芝大神宮』と『め組』を関係づけるものとして社殿前の1対の狛犬の台座には『め組』と刻まれているが(写真中)、これは辰五郎が寄贈したものではなく(後年)氏子たちが『め組』の功績を顕彰するために建立したもの、と翁は推測する。推測ではなく本物の『め組』の遺品がある。『め組の半鐘』がそれだ(写真右)。普段は社殿奥に保存されているそうだが、祭りの期間中は境内に展示されている。(『半鐘』が島流しの刑に処せられ、明治になって島から帰還、『芝大神宮』に奉納されたエピソードは別の機会に。)
余談だが、テレビドラマ『暴れん坊将軍』に登場する“め組の頭・辰五郎”と『め組の喧嘩』で名を挙げた“辰五郎”は同一人物ではない。“享保の改革”の一環で“町火消”が制度化されたのは1720年、吉宗の死去は1751年、大岡忠相の死去は1752年、『め組の喧嘩』
の“辰五郎”は(出生年不詳だが)まだ生まれていない。だから、吉宗や大岡越前と交流があったとされる“辰五郎”は“ドラマ用設定”で史実ではない。第一“上様”が1人で市井を出歩くこと自体がウソ事だから、所詮『暴れん坊将軍』は作り話に違いないが、実は翁が調べた“め組の頭・辰五郎”は“豆辰”と呼ばれるほど小さい体つきだったが度胸があって腕っぷしが強い侠客肌の男だったようだから『暴れん坊将軍』“め組の頭・辰五郎”役の北島三郎は、まさにイメージ通りのキャスティングだ。
歴史上、もう1人の“辰五郎”がいる。江戸末期の町火消「を組」(現在の台東区一帯を担当、後の、いろは四十八組の総元締)の頭“新門辰五郎”(1800年〜1875年=明治8年)だ。幕臣・勝海舟や最後の将軍・慶喜と親交があり、辰五郎の娘・芳は慶喜の妾となった。ともあれ翁、昨日(16日)“だらだら祭り”に行って来た。“め組”の袢纏(はんてん)を着た氏子たちが此処彼処。時は流れても“め組の辰五郎”は今も生きており『芝大神宮』と“め組”の縁は続いている・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |