龍翁余話(471)「散る花を 惜しむ心や とどまりて・・・」
翁は、桜のこの時期には、近場のJR五反田から大崎にかけての目黒川両岸の桜、目黒区の碑文谷(サレジオ教会付近)の桜並木、碑文谷から東急目黒線の西小山駅に抜ける桜堤遊歩道、西小山駅周辺の桜並木がお決まりの“花見スポット”だが、時々は、千鳥ヶ淵、靖国神社、市ヶ谷や四谷の桜堤まで足を延ばすこともある。が、考えて見れば“上野公園の桜”の現物を見たのはいつだったろうか?確かに見た記憶はあるのだが、もう、かなり遠い昔だったような気がする。去る6日の朝のテレビで「満開の上野公園の桜」を視た。
先週号の『西行桜』が、まだ翁の脳裡を往来していたので「よし、俺も西行に倣って1句作ろう」と思い立ち、電車に乗った。うららかな春の陽射しに背中を押されて・・・
6日の昼前、上野駅(公園口)の混雑ぶりは狂騒そのもの。数人の駅員が「押さないで!」「花見のお客様は信号を渡って直ぐに左方面ですよ!」と大声を張り上げ誘導している。
“ウイークデーというのに、何と、暇人の多いことか”翁もその1人だが・・・
徳川家康の側近・天海大僧正(安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧侶)が吉野山から移植させたと言われる上野のお山の桜は、江戸時代から桜の名所として知られ、現代では毎年200万人を超える(内外からの)花見客で賑わう。公園の中心部に立ち並ぶソメイヨシノは約800本だそうだが、歩いていると、とうていその程度の数ではないような“サクラ・ワールド”が広がる。昼間のせいか、ドンチャン騒ぎが無いのがいい。
翁が上野公園を訪れるたびに必ず参拝するのが『清水観音堂(きよみずかんのんどう)』(重要文化財)。京都の清水寺をモデルに天海大僧正が1631年(寛永8年)に創建した。2日後の8日の花祭りを控え(不忍池を見下ろす)舞台に『花御堂』が設けられ、花見客が次々と(花御堂の中に立つ)お釈迦様像に柄杓で甘茶をかけお祈りしていた。♪心の花も咲き匂う 卯月八日の花祭り 幼な姿の御仏を 浄め祀りて 祝(いわ)わなん(釈尊花祭御和讃3番)。翁もお祈りをして甘茶を頂戴した。甘茶をかけるのは、お釈迦様が生まれた時、9匹の龍が現れ「甘露(天からの祝福の雨)を降り注いだ」という伝説に基づくものだそうだ。甘茶とは、ヤマアジサイの1種で山地に生え、葉を乾かすと自然の甘味が出る。
『上野東照宮』入り口の大石鳥居周辺も大勢の外国人見物客が押しかけていた。この社は戦国時代から江戸時代初期にかけての大名で伊勢津藩の初代藩主、藤堂高虎が天海大僧正と図って1627年(寛永4年)に建立したもの(御祭神は家康・吉宗・慶喜)。翁は境内の御神楽殿の桜に魅せられた(写真右)。
上野公園桜見物のフィナーレは『不忍池』(弁天島)だ。ここも人が溢れていた。七福神の紅一点・弁天様を祀る『弁天堂』から池の中を御徒町方面へ走る道(翁は“弁天中之道”と呼んでいる)の桜並木が、また一段と鮮やか(写真右)。翁が1本の見映えのいい桜の木を見つけ(写真中)カメラを構えた途端、中国語、韓国語、タガログ(フィリピン)語の見物客が次々と(立ち入り禁止の)柵をまたいで、その木の下に立ち自撮りを始めた。癪に障ったが“俺が気に入った桜木を、彼らも気に入った。なかなか見る目がある連中だ”と妙に感心して(彼らが立ち去るのを)辛抱強く待った。
さて、西行法師に倣って翁も1句、と気負っていたが、シロウトがそう簡単に詠めるものではない。風に吹かれてヒラヒラと池に散る花びらを見て西行の句を思い出した。【散る花を 惜しむ心や とどまりて また来ん春の 種(たね)になるべき】(散る花を惜しむ気持ちは消えたりせず、来年の春、再び巡り会いたい)(龍翁の訳)――まさに今、翁の切実な願いは“来年の春に、また”である・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |