リオ・デジャネイロのオリンピックが閉幕し、オリンピック旗が次期開催地となる東京の小池知事に引き継がれます。トウキョウはこれからオリンピックとパラリンピックの開催準備が本格化するわけです。
前回の東京オリンピックは、今から52前の1964年(昭和39年)でした。実は、東京は1020年(昭和15年)に一度開催が決定したのですが、日中戦争の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らず、幻のオリンピックとなった経緯がありました。
1970年代以降に生まれた日本人なら前回と次回の東京オリンピックと、2回も体験できることになります。
前回のオリンピックの時、私はすでに社会人になって3年、長野県・諏訪市で迎えました。当時の会社は独身寮の部屋数が不十分で、私のような新人は会社が借り上げた民間のアパートの一室でした。テレビもなく、他の電化製品もない閑散とした部屋でした。
私の就職先は時計会社(諏訪精工舎)であり、セイコーがはじめて東京オリンピックの公式計時を担当することとなり、全社を挙げて電子計時装置を開発、同時に開発したプリンターとともにオリンピック史上初めてクオーツ式の卓上型電子時計で計測に成功したのですが、私のような事務担当の若造ですらも、自分たちの仕事が東京オリンピック成否の鍵を握っているとの認識で、心引き締まる思いでした。
仕事から離れても、当時20歳代前半で、まだ学生気分の抜けきらず、若さに満ち溢れていた私は、青春時代を謳歌していました。パソコンやITなどという便利なものもない時代でしたし、労働日も土曜日も含めた週6日制、夏休みも4日程度だったと記憶します。それでも夏の間、日曜日は必ずといっていいほど近くの八ヶ岳、北八ヶ岳、霧が峰その他のハイキングコースを仲間たちと巡っていました。
東京オリンピックが近付くにつれ、その熱気を感じながらラジオから流れてくる三波春夫の唄う『東京五輪音頭』に胸をときめかし、そして歌いました。当時、私は自転車通勤をしていましたが、通勤の往復に自転車のペダルを踏みながら歌ったことをはっきり覚えています。
また、テープレコーダーもまだオープンリール方式(卓上型)がようやく一般に普及し始めたばかりで、IC式はもちろん、携帯カセット式もなかった時代でした。レコード盤すら私たちには簡単に買える値段でなく、ただ、それに代わる「ソノシート盤」という簡易盤があり、雑誌の付録などで入手でき楽しんだものでした。
1964年東京オリンピックに関連する思い出のひとつは、マラソンコースを実際に選手と一緒に走ったことです。当時、このオリンピックを記念して自分でも何か記憶に残ることをしたいと考えた私は、住んでいた諏訪(長野県)から東京の実家(東京・墨田区)まで自転車で走ることを考え付きました。
会社の先輩から無料同然で譲り受けた3段変速の自転車を毎日通勤に使用していたのですが、2ヶ月間ほど、会社終了後は近くの塩尻峠(標高1,012メートル)まで往復し、トレーニングをかさね東京行きを実行しました。1964年9月だったと思いますが、上司に事情を正直に説明し、土曜日の休暇を申請し、金曜日の終業時間とともに会社からスタートしました。
当時はまだまだ優雅な時代だったことがわかるのは、まずこんな馬鹿げた理由でも休暇をもらえたこと。さらに金曜日に会社から自転車でスタートする時、課長以下全員が会社の門の前まで出てきて手を振って送り出してくれたことです。私も課の皆さんの声援にこたえながら力強くペダルを踏み込んだのでした。私がマイ自転車に積み込んだのは雨合羽、前の晩に仕入れておいた寿司2人前、栄養剤(リポビタンD12本)それに東京までの道路地図ぐらいのものでした。
今では中央自動車道が完備され(尤も自転車の通行は不可でしょう)、その他の道路や環境整備も整っているでしょうが、1964年当時は国道20号線が主で、それも未舗装部分がかなりありました。街路灯さえないところも多く、夜を徹して走るには少々危険だったかもしれません。
途中、山梨県に入ったところで道端に寝ていた犬の尾を踏んでしまい、犬に追われて必死で逃げたり散々の思いもしました。笹子トンネルでは換気が不充分だったようで息苦しさも体験しました。
当時のオリンピックでカヌー競技場として使用される相模湖にも立ち寄りました。そして国道20号(甲州街道)の大垂水峠をこえ東京に入り、マラソンと競歩(50キロ)のコースを実際に選手たちが練習する脇を自転車で通過しました。これが君原健二(結果8位)、円谷幸吉(結果3位)らが走るマラソンコースなのだ、と思いながら通過したことを覚えています。(結果としてはエチオピアのアベベ選手が優勝)
私はこの時、合計約250キロメートルを17時間あまりかけて走破し、東京の実家へたどり着きました。走破とは名ばかりで、途中から上り坂のほとんどは自転車を降りて引きずったといったほうが正しかったかもしれません。
東京から諏訪への帰りは時間的にも体力的にも限界で、自転車はチッキ(鉄道手荷物扱い)として送り返し、私も鉄道で戻りました。帰りの列車の車窓から前日走った道路が見え、この時ぐらい列車のスピードが速いと感じたことはありませんでした。上諏訪駅にたどり着き下り線到着ホームから改札口へ移るための袴線橋を渡ろうにも足腰の筋肉痛と股ずれ痛で動けず苦労したのも今となっては懐かしい思い出です。
どうしてもオリンピックの実況中継を見たかった私は、何とか白黒テレビを購入し、東洋の魔女(女子バレーボール)、柔道、体操、レスリング、重量挙げ、陸上競技、水泳競技など、胸をときめかし、感動の連続でした。期間中はこれらの思い出は私の公私にわたり、その後の人生に大きな影響を及ぼしたことは間違いありません。
すでに体力が衰え、感動する力も少なくなっている現在の私にとって、次の2020年東京オリンピック/パラリンピックは、私にどれほどの感動を与えてくれるか定かではありませんが、待ち遠しい想いです。
河合 将介( skawai@earthlink.net ) |