流行歌としては既に古くなりましたが、一昨年流行った演歌に『夢のゆめ―近松恋物語り―』
(たかたかし作詞、弦 哲也作曲、佐伯
亮編曲、細川たかし歌)と言うのがあります。私のカラオケ演歌レパートリーの一つです。この歌詞の一番はこんな詩です。
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♪ 夫がいます 子がいます
それでも私は 女でいたい
許してください 恋ゆえに
切れぬ縁(えにし)を この人と
捨てる命を 捨てる命を 愛する罪を
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カラオケのメロディに合わせて歌っているぶんには、どうという事はありませんが、改めてこのように文字にして見ると、この歌詞は何とも恐ろしい内容だと気づきます。歌の副題に「近松恋物語り」とあるので、近松文学を題材にしていることがわかります。
私はカラオケでこの歌をうたうたび、だいぶ以前にこの Zakkaya Weekly
に寄稿した一文を思い出します。【「愛と恋の差(1)、(2)、(3)」(Zakkaya Weekly No.84,85,86)参照下さい】
以下は、このときの文章の続きに相当するもので、「愛と恋の差(4)」とでも言えるものです。
以前の文章「愛と恋の差(1−3)」で私は次のような“独断と偏見”を披露しました。
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「愛(愛情)」とは、時間・空間を超越した存在であり、自己犠牲にも喜びを感じ得るもの(あなたの幸せ、私の喜び)、時には神と人との関係(契約)にも喩えられるものを言う。
一方「恋(恋情)」とは、一種の現象・衝動であり、始まりと終わりが存在する。どちらかというと自己中心(私の幸せ、私の喜び)で、これは明らかに人と人との関係(契約)のなかに存在する。
「愛(愛情)」の一つの典型として
親の子供に対する気持ちを考えてみよう。親は我が子が何処に居ようが、どんなに遠く離れていようが、わが子に対する愛情は変わらない。また自分の子は何歳になっても我が子であり、親としての愛情に変わりがなく、我が子の幸せを願うのが普通である。これは明らかに
時間・空間を超越し、自己犠牲のもとに成り立つ関係と言える。勿論 真の夫婦の関係もこの 「愛(愛情)」 による絆がベースになるものだろう。
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「愛」の意味について、手許の国語辞典も次のように定義しています。(三省堂、国語辞典−第二版)
@(相手のしあわせや発展のためにつくす)まじりけのない、あたたかい気持ち
A 〔男女の間の〕愛情。Bものごとをたいせつに(好きだと)思う気持ち。
一方、恋の意味は、
〔男女の間で〕好きで、あいたい、いっしょになりたいと思う強い気持ち(を持つこと)。恋
愛。
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さて、話を最初の「夢のゆめ ― 近松恋物語り ―」の歌詞に戻します。
夫も子供もいる主人公(女性)が「許してください」といっています。歌詞をあまり深く気にしないで歌っていると、この歌は“道ならぬ恋”の罪に我が身をさいなまれ、夫やわが子に対して「許しを乞うている」ように思えるのですが、よく吟味してみると、どうもそうではなさそうです。ではこの歌の主人公は一体、誰(または何)に対して「許してください」と言っているのでしょう?
歌詞の文脈からは明らかに相手は“夫やわが子”ではありません。「許してください」という文言は“恋”ゆえに「捨てる命」と「愛する罪」につながっています。と言うことは、この主人公は自分の夫や子に対して“許し”を求めているのではなく、“不倫の恋”が“不倫の愛”になってしまったのを恥じて、許しを請うていることが判ります。
この歌は「近松恋物語り」であるので“不倫の恋”については、感情(パッション)の発露として、また人間の業(ごう)として認めた上で、その“不倫の恋”がいつのまにか命まで捨てるほどの“不倫の愛”になってしまったことに「罪」を課しているようです。なぜなら“恋”は人と人との関係(契約)であるのに対し、“愛”は人の神に対する関係(契約)であるからです。“愛”に対する“不倫”は神との契約違反です。
と言うことで、このように歌詞を理解してゆくと、結局、この歌の主人公が「許してください」と言っている相手は“不倫の愛”という契約違反をしてしまった“神”である、というのが私の結論でした。
演歌を含めた歌謡曲とは「人間に対する恋の応援歌」だと誰かが言っていましたが、こんな応 援歌もあるのですね。普段ならとうてい口に出せない言葉も歌詞としてなら平気で歌える、カラオケとはありがたいものです。
また、作詞者はさすがきちんと“愛”と“恋”の差をわきまえて作詞をしています。さすがたいしたものです。
河合 将介( skawai@earthlink.net ) |