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1018号
 

NO.1018        Ryo Onishi              11/15/2015

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雑貨屋のひとり言

パリで起こった同時多発テロは大きなショックです。恐ろしいことです。テロは許せない行為ですが報復の応酬で状況が泥沼化するのがとても気になります。安保関連法案を強行採決してしまった日本にとっても他人事ではないと思います。≪R.O≫

 

引退日本人H氏の旅(9)自己中心、自分本位の人々

好奇心旺盛で、何でも見てやろう精神の持ち主だったH氏は、アメリカ大陸を旅行中、三回、地域のコミュニティ主催の講演会を覗きに行ったそうです。うち、二回はニューヨークとロサンゼルスで、それぞれ日本国大使館、総領事館主催のものであり、講演も進行も日本語だったそうですが、一回はシカゴの大学と博物館が現地のアメリカ人向けにおこなった文化講演会で、当然ながらすべて英語で、内容は殆ど理解できなかったそうです。

英語が苦手だった彼が、シカゴでなぜ理解不能な講演会に参加したのか、それはひとえに“現地を知る。好奇心”故だったようです。

ロサンゼルスでの講演会は私も同行しました。日本国の総領事館の職員から『海外在留邦人の安全と当地の治安情勢』というテーマでの話でした。

さて、三回の講演会に参加したH氏の感想総括は「こちらの講演会は活気がありますね」でした。H氏はこの種の文化講演会が好きで、日本では何度もいろいろな集いに出かけているそうです。

彼がいうには「日本では講演の後の質問の時間になっても会場がシーンと静まりかえって誰も発言しなかったり、質問者がいてもせいぜい数人だったりすることがしばしばです。時には気まずくなった司会者が無理に質問を作ったりして・・・。ところがアメリカの講演会では次から次へと質問者が立ち上がっていました。いつ終わるのか心配したくらいでした。それも聴衆が日本人だったニューヨークとロサンゼルスの講演会でも同じ傾向なのでびっくりしました」

一般にアメリカは「個人主義」の国といわれ、「個の自立による自己主張」がすべての考え方の原点であり、その上で家族、社会、国が形成されているのだといわれます。したがって、ひとりひとりが自分の意見を持ち、さらに他人の前で陳述することに抵抗が少ないといわれます。また、幼児期のころから自己主張をする躾(しつけ)、教育を受けているといわれます。特にアメリカは多民族による移民集団の国ですから、もともと集団ごとの根元の文化が異なり、“黙っていてはわかりあえない”側面があるのではないでしょうか。

他方、日本人の場合はどうでしょう。最近は日本もアメリカ式文化に大きく影響され感化されて変わりつつあるようですが、でも、やはり日本人の心の中心は“和”の精神(言い方を変えれば、ことなかれ精神)であり、自己主張より謙譲、相互理解ではないでしょうか。

私は 日本人としての誇りを持っているので、「和と謙譲、相互理解」こそ人類究極の美徳であると信じていますが、でもアメリカを含む国際社会では「沈黙は金」だけではやっていけず、時には「沈黙は禁止」の必要を感じます。言うべきことははっきりという――これがコミュニケーションの第一歩であり、特に異文化交流の原点のようです。

以前、オバマ大統領と初の日米首脳会談に臨んだ我らの安倍首相が、日本を取り巻く安全保障問題に関して、内外記者団に対し、「黙っていてもわかってもらえる世界ではない。わが国として主張すべきところは主張する」と強調していました。日本のリーダーといえども、国際社会の中にあっては国益を護るため、ときには「和と謙譲、相互理解」の精神に反する主張をせざるをえません。敢えて暴論を吐けば「自己主張こそ国際化の第一歩」かもしれません。

話題をH氏の感想「こちらの講演会は活気がありますね」に戻しますが、彼の感想に「聴衆が日本人だった講演会でも次から次へと質問が飛び出し、同じ傾向なのでびっくりしました」とありました。このような集会に出てくる聴衆が若く、アメリカ文化に大きく感化された人々であったこともその一因でしょうが、それだけではないと私は思っています。

日本人もアメリカにある程度長期にいると、競争が中心のこの国から疎外されないため、知らず知らずのうちに自己防衛のための自己主張を身につけるようになっていくようです。はじめのうちは自分の考えをずばりいうことに慣れていないため、躊躇していたものが、生きるために変化してしまうのでしょう。

アメリカ帰りの日本人が“むやみに自己主張する”、“理屈っぽい”、“年長者や目上の人を敬わない”などと、日本で非難される話を耳にしますが、これも良くいえば“国際化”、悪くいえば“麗しき日本文化の衰退”といえましょう。
河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

    

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )


金の成る木とかローンの庭に植え

坪庭といえど律儀に四季の花

盆栽は嫌い自由が好きだから

物納の庭で桜の狂い咲き

格差社会松竹梅と雑草と


( ニュースやぶにらみ )


「和製スー・チー氏不在」

安泰です −安倍内閣

「2位じゃ駄目」

自民党ならわかるはずです −スパコン「京」

「ドーピング疑惑」

沈黙は金 −ロシヤ


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

 

龍翁余話

龍翁余話(401)「ともしび」

約60年も前にタイムスリップした。先日『日比谷公園ガーデニングショー』をご案内してくれた五反田の友人・Tさんのお誘いで今度は新宿の『うたごえの店・ともしび』に行った。昭和30年に東京・新宿にオープン、若者や労働者たちの憩いの場として繁盛した歌声喫茶『ともしび』や『カチューシャ』は昭和40年頃から衰退し始め、多くの店が閉店した、と聞いていたが、まだ(それらの店は)経営していたのだ。歌の上手い司会者のリードで、オール・リクエストの(懐かしい)歌を、客が入れ替わり立ち替わりマイクの前に出て来て歌う。もちろん客席の皆も歌う。客のほとんどは60代、70代、中には80代の人も・・・見事なピアノ伴奏をバックに、いずれも歌い慣れた人たちの“たうごえ”に聴き入りながら翁は遠い少年時代・青年時代を想い起した。「“うたごえ”(青年歌集)こそ、次代を担う我ら若者のテーマソング」といきがってロシア民謡や労働歌、反戦歌を歌いまくったあの頃が走馬灯の如く脳裡をよぎる。あまりの懐かしさに胸が熱くなる瞬間もあった。

翁の年代前後の人なら、この“うたごえ運動”のことはご存知と思うが、“うたごえ運動”のルーツは、戦後の昭和23年に声楽家・関 鑑子(せき あきこ)さん(明治32年〜昭和48年)が興した中央合唱団(社会主義運動・労働者支援運動を基盤とする合唱団)に始まる。この運動は、急速に職場、大学、地域社会など全国に広まり、その延長線で『ともしび』や『カチューシャ』といった“歌声喫茶”も誕生した。

翁の故郷の大分県内でも、いち早く“うたごえ運動”サークルが誕生した。その種を蒔いたのは我が町の音楽家・財津氏(ピアノ・バイオリン・アコーディオンの名手)が率いる『ザイツ・タンゴ・アンサンブル』だった。関 鑑子さんが“うたごえ運動”を提唱した昭和23年と言えば翁が小学6年生の時。その頃、翁はすでにギターの基本奏法を修了してアコーディオンに目を向け、財津さんに弟子入りした。10か月間、ほとんど毎晩“地獄の特訓”を受けた。そのお蔭で師匠(財津さん)から「いい後継者が誕生した」と褒められるくらいに上達した。6年生の3学期頃から楽団の一員に(アコーディオン奏者として)正式に加えて貰った(リーダーの財津さんはピアノとバイオリン)。娯楽の少なかった当時は、各地で“素人のど自慢大会”が流行っていた。アコーディオン少年は学校があるので夜とか日曜日に楽団のお兄さんたちと一緒に流行歌を伴奏した。

翁は本来(師匠の影響で)ラテン音楽、特にタンゴをこよなく愛し、好んで演奏したが、同時に(師匠に連れられて)“うたごえ”(青年歌集)も弾きまくった(思想的なものは別にして)。そして翁の強烈な思い出と言えば――中学1年生(昭和24年)の夏、『原爆を許すまじ・長崎被爆者大会』での演奏の時だった。翁たちが『原爆を許すまじ』を演奏している(ステージ下の)演奏エリアの傍を通って着物姿の娘さんたちが1人ずつステージに上がる。8人ほどだったか、娘さんたちの顔の全部、または半分が被爆による火傷(やけど=ケロイド状)、しかし、彼女たちは、その顔を隠すことなく、むしろ凛としてステージに立つ。会場のあちこちから啜り泣きがもれる・・・ピアノ(バンドリーダーの財津さん)も、トランペットも、クラリネットも、ギターも、ドラムスも皆、泣いている。アコーディオン少年も涙で楽譜がぼやけたが、懸命に弾いた――(このことは2011年8月14日配信の『龍翁余話』「みたび許すまじ原爆」に詳しく書いた)――

翁、中学3年生の時、神戸に遊学、高校を卒業して東京へ。まだ正式に学校から“部”として認められず、サークルとして発足したばかりのW大学合唱団に入った。この合唱団の設立趣旨は、(前述の)中央合唱団設立者の関 鑑子さんの思想を範とする社会主義運動・労働者支援運動・反資本主義運動、つまり“うたごえ運動”を狙いとする集団であった。翁は、正直、社会・共産主義だの、労働運動だの、そんな思想研究には全く関与せず、もっぱら“うたごえ”(青年歌集)活動にのみ参加した。たしか発足当初は50人くらいだったと記憶するが、声自慢の学生たちでも、アコーディオンを弾ける者は翁以外にいなかった。第一、”うたごえ運動“のキャリアが違う。中学1年生の時から大分県内のあちこちで“うたごえ運動”を実践してきた翁から見れば、団員たちは“社会主義かぶれ”の頭でっかちの素人ばかり、と、多少は優越感に浸っていた。しかし、彼ら(上級生)が激論を交わすプロレタリア芸術論には圧倒されたものだ。

ところで翁、(社会主義思想とは関係なく)中学時代から“青年歌集”に親しんで来ただけに、どうしても関 鑑子先生に会いたくて新大久保だったか大久保だったかの中央合唱団を訪ねた。何回目かの訪問で、やっとお会いすることが出来た。“うたごえ運動”に関わる人たちにとって“関 鑑子”は、まさに雲上人、いかに物怖じしない“龍青年”でも、お会いするまでは、さすがに緊張した。しかし、先生は(メガネの奥の目を細めて)温かく優しく“龍青年”を迎えてくれた。わずか20分ほどの面会だったが、別れ際「また、いつでもいらっしゃいね」と言って握手してくれた。先生の手の温かな感触は今でも忘れない。

今、ここは新宿・歌舞伎町の『ともしび』――翁がリクエストした『長崎の鐘』を、翁に代わって歌ってくれるTさんや司会者、客席皆の歌声が店内に響き渡る。♪召されて妻は天国へ 別れてひとり 旅立ちぬ かたみに残るロザリオの 鎖に白き 我が涙――翁の胸は熱くなり、涙をこらえるのに懸命だった。この詩(2番)は、原爆投下直後、一瞬にして妻を失った永井隆医学博士の心情を詠ったもの。翁は博士の著書『長崎の鐘』、『この子を残して』に大きな感銘を受けただけに、この歌『長崎の鐘』への思い入れは特別に強い。いずれかの機会に永井博士の生涯と博士終焉の家『如己堂(にょこどう)(己れの如く人を愛する、の意』のことを語りたい。ともあれ翁を(懐かしい)少年時代、青年時代にタイムスリップさせてくれたTさんに深く感謝しつつ・・・と、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

今週はお休みです。
茶子 スパイス研究家

 

さくらの独り言

今週はお休みです。

 

 

 

 

   

ジャズライフ−今週のお奨めアルバム

USBメモリを使えるプレーヤーはジャズアルバムがたくさん入るのでとても便利です。これに慣れてしまうとCDを入れるのがちょっと面倒になります。雑貨屋を編集しているPCがある部屋にはUSBメモリに対応していないKenwoodのCDプレーヤーしかないので紹介しようと思うアルバムはCDで聴きます。このタイプのCDプレーヤーはもう在庫品だけで終わるでしょうね。
このアルバムはボサノバを創生したAntonio Carlos Jobimの作品集です。ボサノバと言えばギターかサックスが定番ですが、ピアノトリオによるボサノバは珍しいようです。タイトルのFalando De Amorはとてもしぶいジャズで何度聴いても飽きません。

"Falando De Amor" Stefano Bollani Trio

01-Falando De Amor
02-So Tinha De Ser Com Voce
03-Angela
04-Luiza
05-Retranto Em Branco E Preto
06-Agua De Beber
07-Tema Do Amor Por Gabriela
08-Cancao Do Amor Demais
09-Aguas De Marco
10-Pois e
11-Samba De Uma Nota So

Stefano Bollani《 piano 》
Ares Tavolazzi《 bass 》
Walter Paoli《 drums 》
 
ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm  
《R.O.》

編集後記

孫は会うたびにいろんな言葉を覚えて楽しそうに話してくれます。だいぶ会話ができるようになってきました。ほぼ毎日のように観ているのですが成長しているのがわかります。《R.O.》


雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
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http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.1018

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com