weekly

1016号
 

NO.1016        Ryo Onishi              11/1/2015

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雑貨屋のひとり言

近所にあるショッピングセンターはオープンから満5年になります。テナントもずいぶん変わりました。競争がきびしいのか時代が変わったのか5年間続いたテナントでも閉店するところがあります。同時にオープンしたスポーツジムも会員の構成が変わってきているようです。オープン当初は若い人が多かったように思うのですが、今は高齢者(私より年上)の人が大きく増えてきています。スポーツジムも高齢者の会員を獲得できるように高齢者を意識したプログラムにしてきているようです。スポーツジムビジネスは元気です。≪R.O≫

 

ヤ バ イ 話

今から8年前、この欄に今回と同じ表題(ヤバイ話)で一文を書きました。(Zakkaya Weekly #598, Oct.29,2007)その時の文章の趣旨は、『「ヤバイ」という表現は、もともとは泥棒の隠語で、見つかったり、捕まったりしそうだ。危険だという意味だったといわれます。ところが最近の若者たちには「あの子、カッコイイね。ヤバイヨ」のように「ヤバイ」を肯定的な意思表示に使うようになっているという内容でした。

道徳観念で生きる私たちシニアにとって、ヤバイ反社会的行為も、平成世代の若者にとっては、むしろヤバイことが魅力的であり、彼らの自己主張の一つとなるからなのでしょうか。身近な日本語もこのように時代を反映し、変化していることがわかります。

10年ほど前、日本から研修旅行に来た大学生10名ほどを日没時のサンタモニカ海岸へ案内した時、海のかなたに沈むサンセットの雄姿に彼らが異口同音に発した言葉が「ヤバイ!!」または「ヤベエ!!」でした。
最近、文化庁から発表された日本語に関する世論調査の結果によると、日本の10代の9割が「ヤバイ」をすばらしい、良い、おいしい、かっこいいといった良い意味で使い、これは10年前より肯定的な使い方が大きく広がったことが明らかになったそうです。10年前の調査では「ヤバイ」を肯定的に使ったことがある人の割合がない人を上回ったのは、20代以下だけだったが、今回は30代以下に拡大、使う人が 9ポイント増えた。「本来は盗っ人仲間が隠語として使っていた言葉。肯定的に使うことで、より印象づける表現として広がっているのではないか」と文化庁の担当者はみているようです。
今回の調査でも、70歳以上は5%しか肯定的に使っていなかったそうで、私もとても肯定的に使う気になりません。

「ヤバイ」の語源には諸説あるようで、必ずしも泥棒の隠語だけではなく、他にもあるようですが、この表現自体がネガティブな印象で、品位が感じられません。特に日本を離れて海外で生活している一世世代の日本人にとっては、時代とともに変化する日本語に疎く、日本を離れた時の日本語が彼らの日本語なので、意外と古き良き日本語と暮らしている場合が多いようです。日本語を研究する内外の学者の先生方でも、海外に生活する日系人に真の日本語を見出して研究対象にしている方も多いとか聞きます。最近のギャル言葉を対象とするより、海外生活の長い日本人を相手にするほうが意義大と感じなくもありません。
とはいうものの、年代が低い若者達にとって、時代とともに言葉が変遷することは当然のことであり、それはそれで結構というべきなのでしょう。言葉が時代とともに変化し成長するものならば、ぜひ素直で明るく健康的に変化して欲しいと願います。
河合 将介( skawai@earthlink.net )

 

    

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )


まだ老いは先と夫婦の万歩計

喧嘩まだ出来る老老元気です

老春を謳歌進行形の恋

預金帳びびる百歳保証され

なに急ぐ平均寿命越えたのに


( ニュースやぶにらみ )


「辺野古埋め立てへ」

溝はそのままで −防衛庁

「おおさか」

上り坂か下り坂か −維新の会

「橋田寿賀子さん、文化功労者」

おらもがんばらねば −おしん

(おしんの山形弁が間違っていたらごめんなさい)


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

 

龍翁余話

龍翁余話(399)「酉の市」

11月になるとテレビ各局が競って酉の市を中継する。今年は5日が一の酉、17日が二の酉、29日が三の酉。酉の市での見せ場は“熊手買い”のシーンだ。縁起物の熊手は、鷲が獲物を“わしづかみ”することになぞらえ、その爪を模したと伝えられている。福徳をかき集める(わしづかみにする)という願いが込められているのだろう。熊手の中には金銀財宝に見立てた隠し絵がちりばめられている。

翁も若い頃、東京浅草の鷲(おおとり)神社で“熊手買い”を撮影したことがある。熊手屋と客の(掛け合い漫才のような)値引き合戦を面白がりながらカメラを回したものだ。合戦の末、気っ風のいい熊手屋が(ガラガラ声で)「よし、まけた(負けた)」、商人らしい客も呼応して「よし、勝った(買った)」。商談成立後は「よーオ」シャンシャンと威勢のいい手締め。売り手と買い手の晴れやかな表情をアップで撮った。「ああ、これが福顔か」と思ったものだ。そして、客は(値引き合戦に勝っても)値段をまけさせた分を祝儀として熊手屋に渡す、それが熊手の“粋な買い方”であることを知った。

「それは確かに“粋な買い方”ですが、現代のお客は商人ばかりでなく、一般の人、特に若い人も多く来てくれるので、私らは”祝儀“にはこだわりません。気おくれしないで堂々と、私らとの商談(値引き合戦)を楽しんで貰えればいいんですよ」とは(取材時のインタビューに答えてくれた)熊手屋の弁。ついでに”熊手の買い方“を教えて貰った。「まずは、神社さんがご祈祷して下さった”熊手守り“(小さな竹熊手に稲穂やお札をつけたもの)をいただいてから熊手屋回りをします。熊手は買い始めてから毎年、少しずつ大きくしていくのが良いとされているので、最初は小ぶりを狙いましょう」具体的には1万円くらいのものからだっていいそうだ。「あまり小さいと恥ずかしい、なんて遠慮する必要はありません」とのこと。近年、現代風のデザインが出回るようになった。じっくり見て回って、気に入ったデザインと気に入った熊手屋に出会うことが肝心だ。「熊手屋は、人相や雰囲気はともかく、皆いい人ばかりですよ」それはそうだろう、”福“を売る商売だから。更に、その熊手屋は言う「手締めは恥ずかしがらずに大きな声で、大きな仕草で柏手(かしわで)を打ちましょう。お持ち帰りは(熊手は)ぶら下げないで、出来るだけ胸より高い位置に持つ」、「福を取り込みやすいよう、熊手は玄関などの入り口に向けて、少し高いところに飾るか神棚に供えてお正月を迎えましょう、明くる年の来福を信じて・・・」。

取材時の“にわか学習”で、酉の市には天日鷲命(アメノヒワシノミコト)と言う神様が大きく関わることを知った。撮影場所の鷲神社の御祭神も天日鷲命だ。全国で酉の市を行なう神社は沢山あるが、天日鷲命を御祭神としてお祀りしている神社が多いとのこと。鷲神社の社伝(由緒)によると、天照大神(アマテラスオオミカミ)が弟神・須佐之男命(スサノオノミコト)の乱行に立腹、悲しんで天岩戸(洞窟)に隠れると、世の中が真っ暗闇になった。八百万(やおよろず)の神々が岩戸に集まり、天照大神にお出ましを願う相談をした結果、岩戸の前で賑やかに踊りを催すことにした。踊ったのは天宇津女命(アメノウズメノミコト)。何事か、と、天照大神が岩戸からそっと顔を覗かせると、すかさず力持ちの天手力男命(アメノタジカラオノミコト)が、さっと岩戸を開ける、一瞬にして世の中が明るくなる、と、その時、一羽の大鷲が飛んで来て、弦を弾いていた神様の弦に止まり、世の中をいっそう明るく照らした。そこで神々は、その弦の神様を“天日鷲命”と呼ぶようになった。その後、天日鷲命は、諸国の土地を拓き“開運・殖産・商売繁盛“の神様として祀られるようになった。浅草の鷲神社もその1つ。のちに日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の際、鷲神社に立ち寄って戦勝を祈願し、帰途、再び鷲神社に立ち寄り戦勝のお礼として武具の”熊手“を奉納した。その日が11月の酉の日だったので鷲神社はこの日を”例祭日“(酉の市)と定めた。したがって”酉の市“は鷲神社が発祥となる。現代のような”年末風物詩・酉の市“の形は江戸時代になってからとのこと。鷲神社は“鳥の社”または“おとりさま”として崇敬を集め、その名を関東一円(現在は全国)に広めた、とある。この故事により日本武尊も当神社の御祭神の1柱とされている。

ところで、熊手には“おかめ”がつきもの。“おかめ”は古くから存在する日本の面(仮面)の1つ。丸顔、鼻が低く、額は広く、頬が丸く豊かに張り出している(頬高)などが特徴
の女性の顔。下世話では容姿が劣る女性(ブス)を指す侮辱的な俗語だが、実は“おかめ”は福を招く“お多福”と同意語(諸説ある)、そして“お多福”のモデルは(前述の)天岩戸で踊った日本最古の踊り子・天宇津女命であるとか(あくまでも想像絵だろうが)。

鷲神社の例祭(酉の市)当日の“撫でおかめ”が人気だそうだ。その由緒を鷲神社に訊いてみた。おでこを撫でれば賢くなり、目を撫でれば先見の明が効き、鼻を撫でれば金運がつく、右の頬を撫でれば恋愛成就、左の頬を撫でれば健康になる、口を撫でれば災いを防ぎ、顎を(時計回りに)撫でれば物事が丸く収まる・・・この風習、いつから始まったか定かではないが“おかめ”(お多福)は幸せを運ぶ象徴であるということで江戸時代から(熊手に)取り付けられてきたとのこと。【註・鷲神社の“撫でおかめ”は今年から中止、事故防止・混乱防止のためらしい】。

“おかめ“と言えば、以前、埼玉県川口市在住の友人に聞いたことがある。川口神社では毎年決まって12月15日に催される“おかめ市”が賑わうとのこと。“酉の市“と同じように“熊手”も売っている。川口駅から神社まで交通規制がなされ、数百の露店が立ち並ぶ川口市での最大規模のお祭りだそうだ。ともあれ、我が家には熊手もなければ“おかめ”のお面もない。今年は“酉の市”か“おかめ市”に行って“おかめ”(熊手)を買い求め、来年の福を期待しようかと考えている・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

 

茶子のスパイス研究

ターミナルアイランド 古里 A

和歌山県の日本人が新天地を求めてサンペドロのターミナルアイランドに住み始めたのは1900年頃、その頃すでにイタリアからもたくさんの移民が移り住みこの港町は活気に溢れていたそうだ。DVDの映像はターミナルアイランドの日本人村で行われた盆踊りの様子や神社での成人式、お正月、家の路地裏で遊ぶ子供の写真など、まるで昔の日本と変わらない風景が映し出されていた。その映像と交互にその町で生まれ育った日系2世の人達の話が語られ紹介されていく。 Libbyさんからターミナルアイランドの話を聞いた後に、このターミナルアイランドで生まれ育ったという日系2世の人達から偶然、その話を聞く機会があった。 Aさんのお父さんは漁師で母親はターミナルアイランドにある日本人経営の缶詰工場で働いていたと言った。夜中でもいつでも船が港に戻るとターミナルアイランドに鐘が鳴り響く。そうすると女たちは飛び起きて工場に走っていったと言う。大漁の日はいつ帰ってくるかもわからない母親を待ちながら兄弟だけで食事をしたと話してくれた。日本人は真面目で働き者、そう言われるようになったのも日系1世2世の働きぶりがあったからだろう。DVDを見ながらLibbyさんがまた声をあげた。“ これだ、これだ!僕が見たのはこれだよ”と空を泳ぐ鯉のぼりを指して言った。Libbyさんが言っていたwindsocks(吹き流し)の意味が最初はわからなかったのが、この時に映像を見て彼が見たのは鯉のぼりの事を言っていたのだとわかった。青い空に鯉のぼりが泳ぐ、のどかな村の風景が映し出されていた。ターミナルアイランドの一角には豆腐屋さんもあったし、剣道や柔道のクラブもあったそうだ。
Workers in Terminal Island Japanese Fisherman Japanese Town

この村で生まれ育ち漁業を営み生活をしていた人達の平和な村の暮らし。1941年12月7日真珠湾攻撃を切っ掛けに当時の米国大統領ルーズベルトはカリフォルニアに住む日本人の血を引く人達を全て48時間以内に1人1つのスーツケースだけを持ってそこから立ち退くよう命令された。そしてターミナルアイランドに住む日系人も全員収容所に荷物のように送られた。48時間後のターミナルアイランドはまるでゴーストタウンのようだったらしい。Libbyさんはその時、海に捨てられたスーツケースをいくつか見たそうで今でもはっきり覚えていると言った。慌てて荷作りをしても持って行けない荷物は諦めて海に捨てて行ったのだろうか…翌年の1942年2月25日その日はターミナルアイランドの人達の故郷が消えた日。国の命令によって、ブルドーザーによって家々は壊され撤去された。それ以来ターミナルアイランドは海軍の使用地になった。
それから40年後の1982年レーガン大統領が公式に当時ルーズベルト大統領行政命令9066号は軍事的必要性によって正当化できるものではない。人種差別と戦時ヒステリーが引き起こした政治指導者の失策であったと認め米国の日系人に謝罪をした。
そして戦後60年が経った2002年、ターミナルアイランドに住んでいた日本人達が失われた古里、ターミナルアイランドの記念碑を建てた。ほんの一角ではあるけれど神社の鳥居と日本の漁師たちの銅像が建てられている。
1900年から、たった41年だけ存在していたターミナルアイランドの日本の漁村。
今も当時そこに暮らしていた人の心の中に古里として、その漁村は存在している。
最後にLibbyさんの了解を得たので彼のEmailのコメントをシェアさせてもらおうと思う。

I remember that village very very well.I use to walk by the village every Saturday morning when I would go see my dad unloading the sardines in fish Harbor and I used to admire all the Japanese windsocks they would fly on the front porch. I have a very vivid memory of that Japanese village. My father would buy the groceries for the fishing boat from the Japanese market on terminal Island which was called Murogama grocery store. The Japanese people were very good fisherman and they were very honest people. Libby
茶子 スパイス研究家

 

さくらの独り言「再会@ My Huckleberry Friends 」

人の出会いと別れは、みな一様であるようで異なり、その数だけ、それぞれに物語があると私は信じている。それは、夫婦や家族、友人や知人が、職場や地域、日本国内や国外で、小さな偶然が大きな不思議で容(かたち)創られていくもの。時にその容は溢れたり、空になったりしながら、宇宙の星の様に、闇と光に代えられていくもの、と私は思っている。今回から数回に亘り、この秋、そして今から遡る数年間の“再会”の幾つかを、ちょっと物語ってみたい。まず今回は、“My Huckleberry Friends”(『ムーンリバー』・1961年公開映画『ティファニーで朝食を』の主題歌の一節)バージョンから・・・

始まりと終わりのある限られた期間内で、人・モノ・金・情報・その他の限られた資源を用い、明確に設定された目標を達成して成果物を出すこと、これをプロジェクトと呼ぶ。よってプロジェクト遂行メンバーは、日常の業務としてではなく、臨時的に期限付きで招集・組織される場合が多い。タスク(課せられた仕事や職務)ごとに役割を担い合うそのメンバーは、仮に一時的であれ、いわば、同じゴールに向けて強固な活動チーム、いや、ある時は寝食を共にする強い絆で結ばれた同志となることもある。夢も希望も、長所も短所も、強みも弱みも、癖も習慣も全く違う不完全な人間が、直接業務から切り離された処で“ひとつ”になれることは、なかなか難しい。まして、システム導入や建築物などの構築といった目に見えるものではなく、人材開発や意識改革などの様に目に見えない要素の多いものでは、プロジェクトに要する期間選定や算出も不安定・不規則で、士気を高く保ちながらそれを展開することや、成果物創出と投資対効果の測定も難しい。だから、メンバーの業績や人事評価に直接関係しない場合の集合体では、纏まることが困難で、空中分解することも少なくない。だが逆に、そのようなプロジェクトのカム(Com)が立体的に合致して動き始めると、それは車の吸排気システムに代表されるように、大きな爆発力を生み出し、一企業の発展を支え導く大きな石(いわお)、まさに“さざれ石の巌(いわお)”にまで強く成長する。そして、その巌の中に埋もれていた種が根を張り、芽を出し、茎を作り、枝を広げて、木となり森となる。私は幸運にも、このようなプロジェクト、その名も『ラーニング・マネージメント・プロジェクト(LMP)』に参画させていただいた体験があり、その有象無象の成果物は、私の今をも、支えてくれている。

ところで、今から10年前にスタート、約3年間に亘って参画させてもらったそのLMプロジェクトの主要メンバーと、この秋、再会できた。激痩せした私を案じたメンバーの、熱い計らいによって実現したもの。まさに、7年振り。その場所は、名古屋市の保存地区内の四間道(しけみち=名古屋の城下を流れる堀川の西側にあって、江戸時代の初め、名古屋城築城とともに始まった商人町)界隈、熱田の港と名古屋城を結ぶ堀川沿いの、300年の歴史を誇る米問屋の蔵を改造したという、ある粋なお店。7年ぶりに再会した彼らは今でも製造業現場で戦っている人たち。私たちの再会は、川の流れと時の流れも忘れて、最高に幸せを感じたひと時なった。メンバーの一人がこの集いから連想する歌の歌詞をみんなに送ってくれた。タイトルの“My Huckleberry Friends”が、それである。『今は、あまり会うことがなくても、会えば一瞬で心が通じ合うような、そんな友』の表現としてよく使われる。ここにその歌詞と、意訳を紹介してみたい。
Words by Johnny Mercer /Music by Henry Mancini (1961年)
Moon river, wider than a mile
I'm crossing you in style some day
Old dream maker, you heart breaker
Wherever you're going
I'm going your way

Two drifters, off to see the world
There's such a lot of world to see
We're after the same rainbow's end
Waiting round the bend
My huckleberry friend
Moon river and me
ちょっと意訳してみた・・・byさくら
ムーン・リバー、1マイルより広い川
私たちは颯爽(さっそう)と渡る、きっといつの日か
夢を追ったり、破れたり
あなたがどこへ行こうと、一緒に行くよ私たちも

私たちは旅人、さぁ 世界を探しに出かけよう
たくさんの 出会うべき世界が 待っているのだから
私たちは 同じ虹を追っていくんだ あの橋の向こうまで
川の曲がりくねった所で 待っているよ また会える
私たちのハックルベリー・フレンド、あぁ懐かしい友よ
ムーン・リバーと私たち

この日に再会したみんなは、その翌日にはまた、それぞれの持ち場での戦いに帰って行った。同様に私も、帰京していつもの静かな生活に戻った。『ラーニング・マネージメント・プロジェクト』の主要メンバーを擁するS社は、創業85年、日本11点、世界7カ国12点、総社員数約1万人。過去も未来も、日本の、そして多くのグローバル企業の発展に大きく寄与していることは、ここに言うまでもない。私も現役時代、春夏秋冬、どんな日も、どんな時も、プロジェクト先に飛んで行ったものだ。いいことも、そうでないことも沢山あった。過去を振り返り単に懐かしむのではなく、改めて実感すること、それは今の私を育ててもくれたのは、このプロジェクトの同志たち、今や同胞となったメンバーの、愛と献身的な現場力のお蔭だったということ。私は、今日もこれからも、再会は回想録のためではなく、生きる力、働く力、そして癒しとなるようにと祈りたい・・・っと呟く、さくらの独り言。

 

 

 

 

   

ジャズライフ−今週のお奨めアルバム

MarantzのCD、MP3プレーヤー、M-CR610でPCにある音楽をWiFi経由で聴くことができますが、PCを立ち上げておく必要があるのでちょっと聴きたい時には不便です。そこでプレーヤーについている2つのUSB入力端子に、大量のJAZZアルバムを入れたUSBフラッシュメモリを取り付けて、好きな時に聴けるようにしました。今週、その中から選んだのはBrad Mehldauの"Places"です。スタンダードの曲はなく彼のオリジナルの曲ばかりを集めたアルバムです。何度も聴いているうちに落ち着いたピアノで素敵なアルバムだなあと感じています。雑貨屋を編集しながら聴いていますがまるでクラシックを聴いているような感じです。

"Places" Brad Mehldau

01-Los Angeles
02-29 Palms
03-Madrid
04-Amsterdam
05-Los Angeles II
06-West Hartford
07-Airport Sadness
08-Perugia
09-A Walk In The Park
10-Paris
11-Schloss Elmau
12-Am Zauberberg
13-Los Angeles (Reprise)
 
ジャズアルバムの紹介リスト
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm  
《R.O.》

編集後記

最近、刑事コロンボにはまっています。観覚えのある作品もありますがそれでも観てしまう魅力があります。コロンボが小さな手がかりを元に犯行を突き止めていくストーリーには引き込まれてしまいます。ストーリーの面白さとともに、舞台になっている1970年代のロスアンゼルスの様子を観て、私が初めてロスアンゼルスに行った1980年のことを思い出させてくれ懐かしく思っています。金曜日に観た「愛情の計算」の中でコロンボが音声メモを使っているシーンがありました。あの時代に比較的小型の録音機を使っているのは画期的だと思いました。《R.O.》


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Zakkaya Weekly No.1016

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
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