7月初旬の日曜日、午前10時半に浅草吾妻橋脇で柳生新陰流の達人で本願寺の僧籍を持つ友人N氏と勝海舟の玄孫のK女史の案内で勝海舟の足跡を訪ねる半日徒歩ハイクに出かけました。
隅田川にかかる吾妻橋を渡り区役所内の勝海舟展示館へ。その後区役所前の海舟の銅像へ。(写真1から3)
徒歩で川沿いを歩きながら三囲神社へ(写真4,5)
ここには三越池袋店に飾られていたライオンの像が鎮座。
何でも三井本家が祭神として熱心に祭っていたとか。
黄檗宗の名刹・弘福寺に移動。ここは海舟が江戸島田虎之助道場で剣道の修行に励んでいた青年期、師の勧めでこの寺に通い数年間座禅を組んだそうです。
ここは咳止め飴が有名だそうで、受験生に席止めという縁起を担いで人気があるそうです。(写真6)
長命寺の桜餅、言問い団子に寄り一息後、王貞治さんが荒川氏に見いだされた有名な隅田公園少年野球場(写真7)を通り、本所の能勢妙見山別院へ。ここは、海舟の父が息子の開運出世を願って水行をしたので有名なところ。(写真8,9,10)
海舟は何度か引越しをしてますが本所亀沢町の旧宅跡へ。今は、保育園になってました。
その後、海舟生誕の地の両国公園へ。ここは父小吉の実家、小谷の家のあったところ。(写真11,12)
海舟から離れ、忠臣蔵で有名な吉良邸跡へ。討ち入りで有名で語るまでもないかと思います。(写真13)
写真14,15は、回向院。ここは、歴史的に有名な名刹。(写真14,15)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E5%90%91%E9%99%A2
ここまでで1万8千歩、両国駅前で軽く会食をしての半日旅でした。
若かりし20代の頃、子母澤寛の勝海舟を読んで大きな感銘を受けました。
幕末、尊王攘夷、討幕だなどと云って国論が大きく分かれているいる時、終始一貫して開国の意味をぶれることなく声をあげていたの唯一の人が勝でした。
長州、薩摩共に馬関戦争、薩英戦争で異国の力に驚き、尊王攘夷から開国へと転換していったのでした。
玄孫Kさんからの話ですが、海舟病床にて“これで御終い”と云って死んだというのは、作り話で“もう俺も死が近いな”と云ったのが誤ってそう伝えられたとのことでした。
写真16,17,18は勝海舟の年譜、情報まで。敢えて圧縮してません。拡大してお読みいただければ幸甚に思います。
中條 石(いわお) |